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2010年12月

2010年12月31日 (金)

閉塞感と刹那ムード

こうした社会環境の中で、世の中には閉塞感と刹那ムードが広がっていました。

元禄16年(1703)、『曾根崎心中』で大あたりをとった浄瑠璃作家・近松門左衛門は、享保期に入っても『心中天の網島』『女殺油地獄』『心中宵庚申』などの心中ものを書き続けました。これに影響されて、上方を中心に心中事件が多発したため、幕府は享保8年(1723)、心中ものの出版や脚色を厳禁し、死体は取捨て、未遂の生存者は非人手下として扱うように命じました。だが、その後も、心中をテーマにした豊後節が大流行するなど、世間に抗う一種の美学となって根強く続きました。

刹那ムードが流行る背景には、生き方、暮らし方の大きな変化も影響していました。当時の成熟した大都市、つまり江戸や大坂では、男子人口が女子人口より著しく多いため、結婚年齢が高くなっており、いわゆる晩婚化、非婚化が進んでいました。また農村からの出稼ぎに出た若い男女は、その間結婚を延ばしましたから、たとえ帰村しても晩婚になりました(速水融ほか「概説 17―18世紀」)。

他方、農村では多くの農民たちが、堕胎や間引き(嬰児殺し)などの出産抑制を頻繁に行っていました。今でいう少産化、少子化ですが、それは飢饉や凶作のために「やむなく」行われたのではなく、多くの子供を持つよりも1人当たりの所得を最大化し、生活水準の維持・改善をめざすという選択の結果でした(S・ハンレー&K・ヤマムラ『前工業期日本の経済と人口』))。

ここには人口停滞時代の生活意識が如実に現れています。人口容量が伸びない社会になると、自らの生活水準を維持するため、親世代は子どもを減らし、子ども世代は高齢世代の世話を縮小します。1人ひとりの選ぶ、晩婚や非婚という結婚抑制行動、堕胎や間引きなどの出産抑制行動、世話の拒否や姥捨てなどの扶養敬遠行動は、やがて集団全体に広がって人口を減らします。それゆえ、江戸時代の出生率は、生活水準がより低かった17世紀よりも、生活水準が上がった18~19世紀の方が逆に低下していったのです。

さらにこうした意識は、人口の増減という次元を超えて、社会全体の人間関係にも広がり、せちがらい世相を作り出します。人口容量が拡大していた時代には、自分の心身、生き方、時間、経済状態などで、かなりの豊かさや自由さを満喫できますから、自分を強く意識するまでには至りません。だが、容量にかげりが出てくると、ほんの僅かの制約が現れただけで、敏感に自分自身を意識し、ともすれば自己中心主義やミーイズムに走ります。

つまり、人口容量の伸びていた時には、人々が自意識を肥大化させ、生活願望をどれだけ膨ませても、それなりに許容できました。だが、容量が伸びなくなったのに、自意識をますます膨らませた人々が増えれば、世の中は急速に息苦しくなります。必然的に競争が激しくなり、攻撃的になったり、逆に自閉的になったり、ついには脱落していく人たちも増えてきます。あるいは自意識に殉じて、自己破壊へ向かう人も出てきます(古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)

生活水準の上昇に伴う自意識の拡大と、人口容量の停滞による閉塞感の浸透、2つの意識が絡まって、享保期の世相を形成していました。

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2010年12月30日 (木)

人口容量の壁

Photo_2 「平成享保」という造語は、序章でも述べたように、「平成」と「享保」がともに人口容量の壁に突き当たった時代である、という共通点を示したものです。なぜ突き当たったのかといえば、一定の文明を応用して作り上げた、日本列島の人口容量が、それ以上は広がらない状況に陥ったからです。

そうなると、平成と享保は、最も基本的な社会構造の次元で、相似的な様相を持つ可能性があります。約300年の時間差がある以上、技術や風俗は大きく異なっていますが、頭上の壁にいかに立ち向かうか、という点では、時代の気分や社会のムードは限りなく似てきます。とすれば、享保とは一体、どのような時代であったのか、をまず振り返っておくことが必要でしょう。

享保とは、図表に示したように、享保元年(1716)から享保21年(1736)までの21年間です。江戸中期の人口は、この間の享保17年(1732)前後に3231万人で、人口容量の壁にぶつかり、その後80~90年間停滞しました。平成が、平成17年(2005)から人口が減りはじめたのと相通じています。

歴史的な事象でいえば、徳川吉宗の八代将軍就任にはじまり、「享保の改革」とよばれる大改革の開始から、南町奉行・大岡忠相や勝手掛老中・水野忠之の活躍を経て、改革路線の変更に至る時期に相当します。気候の悪化や農業生産の停滞で飢饉が相次ぎ、百姓一揆や都市打毀しも多発していました。

百姓一揆はもともと、小百姓の意を体して村役人が直訴する村役人代表越訴が多かったのですが、正徳~享保時代になると、多数の小百姓が徒党を組んで直訴する惣百姓強訴が増加しました。小百姓が参加すると、その矛先は領主層だけでなく、特権をもった百姓、村役人、町人にも向かうようになり、越後村上の強訴、会津御倉一揆、出羽幕領一揆、陸奥信夫・伊達二郡一揆など、享保年間に90件を数えています。

また都市打毀しも、1710年代からはじまり、享保期に高揚期を迎えています。とりわけ享保18年(1733)に起こった江戸、高山、富山の打毀しは、いずれも飢饉による米一揆でした。ここでも、主導権が有力町民層から下層民に移っています。

騒動の背景には、飢饉や農業停滞、あるいは領主層の収奪強化がありましたが、それ以上に大きかったのは農民や町人の権利意識の上昇でした。元禄期のバブル社会の中で高度な生活水準を味わった以上、その暮らしを失うことはもはやできなかったのです。

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2010年12月29日 (水)

人口容量が飽和した時代

繰り返しますが、2つの時期は両方とも、日本の人口が増加から停滞へと向かいはじめた転換期です。なぜ人口が停滞したかといえば、それぞれの時代を支える人口容量が飽和したからです。

元禄末期でいえば、当時の生産力を象徴する耕地面積が、約300万町歩でピークに達し、以後は伸び悩んでいます。150年後の幕末を100とした時、この時期までに耕地面積で92%、生産石高で70%にも達していました。当時の開墾技術や農業技術がほぼ限界に達したからです。それゆえ、元禄末期~享保初期は、農業生産の限界化に伴って、成長・拡大型社会から飽和・濃縮型社会への一大転換期となったのです。

同様に昭和末期~平成初期にも、幕末以来、近代日本の人口容量をひたすら拡大させてきた近代工業文明が、徐々に限界に近づいていました。なぜなら、現代日本の人口容量を支える基本的な条件に、環境問題、技術停滞、貿易摩擦などでさまざまな制約が増加しているからです。さらには2章で詳しく述べるように、近代工業国家の前提であった「工業製品高・農業産品安」という国際的な構造が崩れ、「工業製品安・農業産品高」という構造も進んでいます。それゆえ、現代日本もまた、成長・拡大型社会から飽和・濃縮型社会へと急速に転換をはじめているのです。

このように、2つの時期はともに人口が人口容量の上限に差しかかった時代です。つまり、1つの時代が人口波動の上で、同じような位置にくると、同じような事象が起こるのです。時代が大きく異なり、1つ1つの事件は違っていても、その背後に流れる社会構造が酷似してくるからです。

いかがでしょうか。人口波動法の根拠となる時代の相似性をある程度わかっていただけたでしょうか。この章の初めにあげた「平成享保」の予測はこうした方法を用いたものです。その結果、バブル崩壊後の20余年の世相がほぼ当たりました。

とすれば、今後2.30年後の世の中もまた見通せるのではないでしょうか。以下の各章では、平成享保時代を振り返りつつ、それを基盤にしてその後の日本、2020年代までの日本を、大胆に展望してみましょう。

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2010年12月28日 (火)

昭和元禄から平成享保へ

このように農業後波と工業現波という2つの波動をざっと比べてみると、人口推移と社会事象の間には、6つの時期別にいくつかの相似点があることがわかります。そこで、さらにこの方法を援用して、高揚期から飽和期に到る過程を、より詳しく比較してみましょう。

農業後波…1700年前後の「元禄」末期には、五代将軍徳川綱吉の治世下、放漫財政、過剰消費、頽廃風俗が絶頂に達し、史上類例のない、爛熟した消費文化が開花したが、その裏では度重なる貨幣悪鋳で物価が高騰し、幕藩体制の隅々まで賄賂が横行する、腐敗色の濃い時代となった。

工業現波…1970~80年代の「昭和元禄」期には、福田―大平―鈴木―中曽根―竹下と続いた自由民主党政権のもと、高度成長経済が絶頂に達し、高額消費や貴族消費などバブル経済が咲き誇ったが、その裏では狂乱物価や地価高騰が急進し、リクルート事件のような、大規模な汚職事件も露顕した。

農業後波…宝永6年(1709)、六代将軍に就いた徳川家宣は奢侈抑制、風俗規制、緊縮財政など、いわゆる「正徳の治」に踏み切った。家宣に起用された間部詮房や新井白石が、元禄期の通貨増発を一気に縮小して引き締め政策へ転換すると、元禄バブル経済はたちまち崩壊し、一転して猛烈なデフレ経済に陥った。

工業現波…平成元年(1989)、総理大臣に就いた海部俊樹は、株価や地価の高騰を鎮静すべく、総需要の抑制策や金融引き締め策など、緊縮経済への転換を開始した。これを受けて、三重野日本銀行総裁が徹底した金融引き締め政策に乗り出すと、昭和バブル経済はたちまち崩壊し、一転してポストバブルの大不況に陥った。

農業後波…正徳時代には、六代家宣が病死、七代家継が幼少であったため、間部―白石政権が実質的に政務をとったが、2人とも成り上がりのため政治力が弱く、家継の死で失脚した。代わって享保元年(1716)、家康の子孫ながら、まさかと思われていた傍系の紀州藩主・徳川吉宗が八代将軍に就任すると、「将軍親政」を復活させ「享保の改革」に着手した。

工業現波…平成初期には、宮沢内閣の総辞職で永年の自由民主党独裁体制が崩壊し、新生党、日本新党、社会党など連立による細川内閣から羽田内閣、自民党、社会党、新党さきがけ連立の村山内閣、自民党の橋本、小渕、森内閣と弱体政権が続いた。代わって平成13年(2001)、二世議員ながら、まさかと思われていた小泉純一郎が内閣総理大臣に就任すると、「官邸主導」によって「聖域なき構造改革」に着手した。

農業後波…吉宗は享保の改革を強力に進め、倹約社会の実現や幕府財政の再建などに成功した。しかし、享保17年(1732)ころから人口が減りはじめると、吉宗は米価維持政策や増税政策などの経済・財政運営は、勝手係老中・松平乗邑や南町奉行・大岡忠相らに任せるようになる。その後、倹約政治や米価対策などへの社会的批判を受けて、延享2年(1745)、将軍職を引退した。

工業現波・・・小泉は平成17年(2005)9月の衆議院議員総選挙で圧勝して、日本道路四公団の民営化や郵政民営化を実現した。この年から人口減少がはじまったが、小泉は経済・財政政策を、自由競争と市場原理を重んじる竹中平蔵国務大臣にまかせたまま、一貫して変えなかった。しかし、格差拡大や景気後退などの批判が高まってくると、2006年9月、内閣総理大臣を引退した。

農業後波・・・延享2年(1745)、将軍職に就いた、吉宗の長男・家重は、言語不明瞭で政務には不向きであったため、側用人の大岡忠光が執政として、政治の実権を握った。

工業現波・・・小泉の後継者、安倍、福田、麻生の自民党・三総理、次の民主党・鳩山総理・・・いずれも世襲議員であったため、政権担当力が弱かった。このため、鳩山政権の実権は小沢民主党幹事長に委ねられ、さらに次期の菅政権も仙石官房長官に実権を委ねた。

以上のように、元禄~享保期の社会と昭和末期~平成初期の社会は、いくつかの点で酷似しています。これこそが人口波動による歴史の相似性ということでしょう。

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2010年12月26日 (日)

農業後波と工業現波を比較する

この仮説はどこまで正しいのでしょうか。それを確かめるため、日本の人口波動の中から、農業後波(室町~江戸時代中期)と工業現波(天保~現代)の2つを比較してみましょう。図表Photo (人口データは古田隆彦著『日本人はどこまで減るか』) は両者を比べたものですが、勿論、人口の規模と時間の密度が違いますから、上下のグラフの縦横の尺度は変えてあります。そのうえで見比べてみると、2つの波動の形は大変よく似ています。だが、人口推移が似ているだけではありません。さらに注目すべきは、対応する社会現象も大変似ているということです。

農業後波は室町時代から、工業現波は江戸時代後期から、それぞれスタートしていますが、まずは相似点をざっと眺めてみましょう。

始動期

農業後波…守護大名から戦国大名へ、新たに勃興してきた地方領主層は、新しい開墾技術や集約的な農業技術を競って採り入れ、各々の領地での農業生産の最大化と領民の増加をめざして、版図拡大を競ったため、戦国の動乱がはじまった。

工業現波…西南雄藩に代表される有力諸藩は、西欧の近代的な科学技術や経済制度を競って採り入れ、各々の領地での農業生産や経済活動の活性化と領民の増加をめざしたうえ、幕藩体制の改革を狙ったため、幕末の動乱がはじまった。

離陸期

農業後波…多くの戦国大名の中から徳川家康が抜け出し、関ケ原の合戦で戦国時代に終止符を打った結果、社会が安定し、集約農業技術が全国に広がって、人口が急増に移った。

工業現波…幕末の動乱の中から薩長土肥の四藩が抜け出し、徳川幕府を倒して明治政府を樹立した結果、社会が安定し、西欧型の農業技術や産業開発が全国に広がって、人口が急増に移った。

上昇期

農業後波…徳川幕府が急成長するのに伴って、外国との軋轢が高まり、ポルトガルやイスパニアを後ろ楯にしたキリシタン衆との間で、島原の乱が起きた。

工業現波…大日本帝国が急成長するのに伴って、外国との軋轢が高まり、アメリカやイギリスとの間で、太平洋戦争が起きた。

高揚期

農業後波…島原の乱の終結で、世の中が安定した結果、社会・経済も急拡大に移り、消費文化の花が開く「元禄」時代を迎えた。

工業現波…太平洋戦争の終結で、世の中が安定した結果、経済も高度成長に移り、消費文化の花が開く「昭和元禄」時代を迎えた。

飽和期

農業後波…集約農業社会の人口容量が飽和して人口はピークに達し、社会・経済にも停滞色が深まったため、八代将軍・徳川吉宗が「享保の改革」を実施した。

工業現波…近代工業文明の人口容量が飽和して人口はピークに達し、社会・経済にも停滞色が深まったため、自民党政権は次々に「平成の改革」を実施した。

下降期

農業後波…人口容量の制約で人口は約80年間減少し続けたが、その間に社会・経済は成熟し、江戸文化が爛熟した。

工業現波…人口容量の制約で人口は少なくとも50年間減少し続けたが、その間に社会・経済は成熟し、平成文化が爛熟していく(予測)。

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2010年12月25日 (土)

時期別の社会特性

こうした時期別の基本特性の上に、世界や日本の過去の変動を重ね合わせてみると、各時期の社会特性がより詳しく設定できます。詳細は古田隆彦著『人口波動で未来を読む』や『日本はなぜ縮んでゆくのか』などで述べましたが、要約すると、各時期には次のような傾向が現れてきます。

始動期…新文明の開発や導入で、それまで人口を抑えていた、さまざまな人口抑制が緩み、同時に新たな社会・経済構造が助走しはじめる。それとともに、古い社会を担っていた旧勢力と新しい社会を作ろうとする新勢力の間で摩擦が高まり、社会全体に保革対立、混沌や混乱、期待や展望といったムードが高まる。

離陸期…主導文明の選別や浸透によって、人口抑制が解除され、同時に社会・経済の拡大が開始される。それに伴って、新旧激突の後、社会勢力の統一が達成され、新しい時代精神の下で統一・統合のムードが高まる。

上昇期…主導文明の定着・主導化で諸制約が解消されるにつれて、社会・経済は急拡大に移る。その結果、政治的には中心勢力への集中や集権化が進み、社会全体に成長や発展、新規や清新などのムードが高まる。

高揚期…主導文明の更新・再生で人口容量が拡大するにつれて、社会・経済の拡大は絶頂に達する。それとともに、中心勢力の権力もまた絶頂に達し、社会全体に拡大や膨張、豊満や過剰などのムードが高まる。

飽和期…主導文明の飽和・停滞化に伴って、さまざまな人口抑制が作動しはじめ、社会・経済の拡大も鈍化しはじめる。そうなると、中心勢力にも動揺が起こり、社会全体に飽和や閉塞、破局や動揺など、先行きへの不安ムードが広がる。

下降期…主導文明の停滞で人口抑制が完全作動し、同時に社会・経済の停滞、勢力の分散化や形式化が進行する。これに伴って、社会全体に知足や耐乏の気分が高まり、爛熟・頽廃ムードも広がっていくが、他方では新文明への模索も進みはじめる。

以上のように、六つの時期の社会は、自然環境と文明の相関状況によって、それぞれ独自の特性を示します。となると、何度か繰り返される人口波動において、始動期には始動期の、上昇期には上昇期の、下降期には下降期の、それぞれの特性が現れますから、同じような事象が何度か発生する可能性が高まります。言い換えれば、いずれの個別波動においても、それぞれの時期毎に相似関係がなりたつということです。

いうまでもなく、歴史は1回限りのものですから、全く同じことが再び起こることはありえません。とはいえ、個々の事象の背後に潜む基本的な構造に、それぞれ相似性がある以上、似たような事象が何度か起こることは十分考えられます。これこそ「歴史は繰り返す」という言葉の真意だと思います。 

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2010年12月24日 (金)

個別波動の時期別特性

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人口波動は、一つひとつの個別波動とそれらが連続する長期波動によって構成されています。このうち、個別波動の増加や減少というプロセスは、それぞれの時期に相当する社会動向と密接な関係を持っています。この関係を前提にすると、「人口波動の進行過程に伴って、各過程の社会もまた特定の様相を呈する」という仮説がなりたちます。

具体的に説明しますと、個別波動の進行過程は、図表に示したように、始動期、離陸期、上昇期、高揚期、飽和期、下降期の六つに分かれます。この六つの時期については、人口波動そのものの特性、つまり自然環境と文明の相関関係や人間の出生・死亡状況といった基本的な特性が、およそ次のように設定できます。

始動期…新しい文明によって自然環境の新たな利用が可能になるという期待の下に、出生数が微増し、死亡数が微減する。

離陸期…新しい文明が自然環境の利用を開始するにつれて、出生数が上昇しはじめ、死亡数が低下しはじめる。

上昇期…新しい文明が自然環境の利用を本格化するに伴って、出生数が急増し、死亡数が急減する。

高揚期…一つの文明が自然環境の利用を拡大し続けているものの、出生数が微減し、死亡数が微増しはじめる。

飽和期…一つの文明による自然環境の利用が飽和するにつれて、出生数が停滞し、死亡数が増えはじめる。

下降期…一つの文明による自然環境利用の限界化に伴って、出生数が急減し、死亡数が急増する。

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2010年12月23日 (木)

人口波動で予測する

人口波動説などというと、なにやら胡散臭い感じがしますが、理論的な系譜としては、近代人口学の開祖、R・マルサスの提唱した「人口循環」論を、筆者が人口生態学や文明論の視点から再構築したものです。

人間は文明によって自然環境に介入し、一定地域が養える人口数を拡大していくことができます。この数を「人口容量」と名づけると、それは「一定の地域の自然環境を人間が一つの文明で利用して、どれだけの人口を養えるか」と定義されます。この容量に余裕がある時には人口は増えますが、余裕がなくなるにつれて、人口を抑制する、さまざまな仕組みが働きはじめます。

 注:「人口容量」という言葉は、生態学の用語「C
arring Capacity」を、古田隆彦が初めて人間に適用した造語です(『ボーダレスソサイエティ・・・時代は昭和元禄から平成享保へ』1989)。

人口容量は、人間が新たな文明を創造し、自然環境に働きかける度に更新されます。人口容量が変われば、人口の推移も変わります。それゆえ、人口容量が変化するにつれて、人口もまた段階的な波を描きながら増加していきます。この段階的な波を、筆者は「人口波動」(古田隆彦著『人口波動で未来を読む』1996)と名づけました。

実際、世界の人口は、旧石器文明で約600万人、新石器文明で約5000万人、粗放農業文明で約2億6000万人、集約農業文明で約4億5000万人、近代工業文明で約90億人と、文明が人口容量を拡大するごとに、波動を描くように増加してきました。これが世界の人口波動です(図表参照)。

日本列島の人口もまた、旧石器文明で約3万人、新石器(縄文)文明で約26万人、粗放農業文明で約700万人、集約農業文明で約3250万人、近代工業文明で約1億2800万人と、人口容量の拡大に沿って、5つの波を形成してきました。まさしく日本の人口波動です(図表参照)。

世界人口も日本人口も、両方とも5つの波を描いていますから、石器前波石器後波農業前波農業後波工業現波と、共通の名前をつけておきます。

これらの波動を未来予測に応用したものが「人口波動法」です。「人口波動でなぜ未来が読めるか」といえば、人口波動のプロセスには、自然環境と文明の関係が時間的な変化として潜んでいるからです。

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2010年12月22日 (水)

予測が的中した平成ムード

徳川吉宗が活躍した時代が「享保」です。元号が「昭和」から「平成」へと変わった平成元年(1989年)の秋、筆者はある新聞に「平成享保」と題するコラムを寄稿し、昭和に続く時代は、限りなく江戸時代の「享保」に近づく、と予測しました。すでに20余年が過ぎましたが、その要旨は次のようなものです。

日本の人口は今、大きな曲がり角にさしかかっており、あと20年後に人口の停滞する社会が迫っている。人口が伸びなければ、生活水準、消費水準が一定である限り、内需もまた全く伸びない時代になる。

そこで、1990年から2020年までの20年間は、約160年間続いてきた成長・拡大型の社会システムや生活様式を、飽和・安定型のそれへと移行させる一大転換期になるだろう

260年前に、同じような時代があった。江戸時代の人口は1710年頃から飽和しはじめ、その後1730年までの約20年間は成長から停滞への転換期となった。この時代を貫くテーマは、「放漫財政から緊縮財政へ」「金銀輸出から俵物(たわらもの=実物)輸出へ」「享楽主義から倹約主義へ」「好色文学から義理文学へ」など、それまでの水ぶくれ社会を、いかにしてスリムな社会に切り換えていくかとなった。

とすれば、1990年からの20年間も同じように「調整の時代」となり、成長・拡大の絶頂期であった「昭和・元禄」にならって、「平成・享保」とでもよばれることになろう。(某新聞・1989年9月18日夕刊・古田隆彦寄稿)

「平成享保」という造語は、このコラムから生まれ、その年の新語大賞にもノミネートされました。いうまでもなく。「平成享保」は「昭和元禄」の続編です。1964(昭和39)年、過剰消費に浮かれる、当時の世相を、後に総理大臣になった福田赳夫は「昭和元禄」と名づけました。この表現を継承して、筆者はポスト昭和を「平成享保」と命名したのです。

1989年といえば、平均株価が3万8915円(12月29日)と、史上最高となった年です。いわゆるバブル経済が絶頂に達し、経済学者や評論家のほとんどが「日本経済はこのまま拡大を続ける」と口々に唱えていた頃です。

このためか、掲載された直後から「平成享保にはならない」とか「平成享保にしてはいけない」などの批判もありましたが、その後の社会は、ほぼこの見通し通りに動いています。とりわけ「成長・拡大型から飽和・安定型へ」をキーワードに、「放漫財政から緊縮財政へ」とか「享楽主義から倹約主義へ」と見通した展望は、この20余年の社会・経済を確かに予言していたと自負しています。

ただ一つ、前提にした人口予測(厚生省人口問題研究所・1986年12月推計)はやや甘かったようで、日本の総人口は5年ほど早まり、2005五年から減少に転じています。だが、人口が増加から減少に転ずれば、社会・経済もまた成長・拡大型から飽和・成熟型へ移行していく、という基調を変える必要はまったくなかったようです。

なぜこれほど的中したのでしょうか。この予測は、私の提唱する「人口波動説」を初めて未来予測に応用したものですが、ここまで当たったことで、その正当性がそれなりに実証されたと思っています。

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2010年12月21日 (火)

龍馬よりも田沼が必要!

坂本龍馬の再来を望む声が高まっています。若手の政治家やベンチャー経営者が「いでよ龍馬」などと猿芝居を演じています。あるいは、学者や評論家も現代日本を幕末に見立てて、「平成維新」とか「第三の開国」論を主張しています。

だが、これらの意見はいずれも的外れです。なぜかといえば、現代の日本は、人口が増加から減少へ向かう時期に当っているからです。これに対して、幕末の日本は人口が微増から急増へと向かう時期です。これはまさに正反対の位置ということになります。

幕末期とは、西欧文明の導入で人口の増加見通しが広がり、現状維持の生活に慣れた人々も、将来に向けて明るい見通しを持ち始めた時代です。にもかかわらず、変化を嫌った徳川幕府が、この動きを無理やり抑え込もうとしたため、国民大衆の不満が溢れ、一触即発の状態が生まれていました。それゆえ、小さな男のほんのひと突きで、たちまち風船が破れたのです。膨らみきった不満があったればこそ、坂本龍馬西郷隆盛が、それぞれの力を十二分に発揮できたのです。

ところが、現代日本は飽和状態です。国民の多くが各々の膨らみきった生活願望をほとんど満足させ、これ以上生活水準が上昇していけば、間もなく資源不足や環境悪化を招くことを強く自覚するようになっています。勿論、政治や行政には強い不満を持っていますが、それは閉塞状況を突破できないからではなく、飽和・濃縮社会へ巧みに軟着陸できないことへの苛立ちにすぎません。

とすれば、今、求められるリーダーは、もはや成長・拡大をめざす龍馬や西郷ではありえません。従来の成長・拡大社会への愛着を振り切って、あえて飽和・濃縮社会へ向かおうとする徳川吉宗、あるいは田沼意次なのです。

このブログで述べるような、長期的な歴史観からみると、21世紀の日本が向かおうとしているのは、人口増加=成長・拡大社会ではなく、人口減少=飽和・濃縮社会です。このように時代の構造が本質的に異なっている以上、現代を幕末に例えるのはまったく馬鹿げたことといえるでしょう。

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