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2010年12月28日 (火)

昭和元禄から平成享保へ

このように農業後波と工業現波という2つの波動をざっと比べてみると、人口推移と社会事象の間には、6つの時期別にいくつかの相似点があることがわかります。そこで、さらにこの方法を援用して、高揚期から飽和期に到る過程を、より詳しく比較してみましょう。

農業後波…1700年前後の「元禄」末期には、五代将軍徳川綱吉の治世下、放漫財政、過剰消費、頽廃風俗が絶頂に達し、史上類例のない、爛熟した消費文化が開花したが、その裏では度重なる貨幣悪鋳で物価が高騰し、幕藩体制の隅々まで賄賂が横行する、腐敗色の濃い時代となった。

工業現波…1970~80年代の「昭和元禄」期には、福田―大平―鈴木―中曽根―竹下と続いた自由民主党政権のもと、高度成長経済が絶頂に達し、高額消費や貴族消費などバブル経済が咲き誇ったが、その裏では狂乱物価や地価高騰が急進し、リクルート事件のような、大規模な汚職事件も露顕した。

農業後波…宝永6年(1709)、六代将軍に就いた徳川家宣は奢侈抑制、風俗規制、緊縮財政など、いわゆる「正徳の治」に踏み切った。家宣に起用された間部詮房や新井白石が、元禄期の通貨増発を一気に縮小して引き締め政策へ転換すると、元禄バブル経済はたちまち崩壊し、一転して猛烈なデフレ経済に陥った。

工業現波…平成元年(1989)、総理大臣に就いた海部俊樹は、株価や地価の高騰を鎮静すべく、総需要の抑制策や金融引き締め策など、緊縮経済への転換を開始した。これを受けて、三重野日本銀行総裁が徹底した金融引き締め政策に乗り出すと、昭和バブル経済はたちまち崩壊し、一転してポストバブルの大不況に陥った。

農業後波…正徳時代には、六代家宣が病死、七代家継が幼少であったため、間部―白石政権が実質的に政務をとったが、2人とも成り上がりのため政治力が弱く、家継の死で失脚した。代わって享保元年(1716)、家康の子孫ながら、まさかと思われていた傍系の紀州藩主・徳川吉宗が八代将軍に就任すると、「将軍親政」を復活させ「享保の改革」に着手した。

工業現波…平成初期には、宮沢内閣の総辞職で永年の自由民主党独裁体制が崩壊し、新生党、日本新党、社会党など連立による細川内閣から羽田内閣、自民党、社会党、新党さきがけ連立の村山内閣、自民党の橋本、小渕、森内閣と弱体政権が続いた。代わって平成13年(2001)、二世議員ながら、まさかと思われていた小泉純一郎が内閣総理大臣に就任すると、「官邸主導」によって「聖域なき構造改革」に着手した。

農業後波…吉宗は享保の改革を強力に進め、倹約社会の実現や幕府財政の再建などに成功した。しかし、享保17年(1732)ころから人口が減りはじめると、吉宗は米価維持政策や増税政策などの経済・財政運営は、勝手係老中・松平乗邑や南町奉行・大岡忠相らに任せるようになる。その後、倹約政治や米価対策などへの社会的批判を受けて、延享2年(1745)、将軍職を引退した。

工業現波・・・小泉は平成17年(2005)9月の衆議院議員総選挙で圧勝して、日本道路四公団の民営化や郵政民営化を実現した。この年から人口減少がはじまったが、小泉は経済・財政政策を、自由競争と市場原理を重んじる竹中平蔵国務大臣にまかせたまま、一貫して変えなかった。しかし、格差拡大や景気後退などの批判が高まってくると、2006年9月、内閣総理大臣を引退した。

農業後波・・・延享2年(1745)、将軍職に就いた、吉宗の長男・家重は、言語不明瞭で政務には不向きであったため、側用人の大岡忠光が執政として、政治の実権を握った。

工業現波・・・小泉の後継者、安倍、福田、麻生の自民党・三総理、次の民主党・鳩山総理・・・いずれも世襲議員であったため、政権担当力が弱かった。このため、鳩山政権の実権は小沢民主党幹事長に委ねられ、さらに次期の菅政権も仙石官房長官に実権を委ねた。

以上のように、元禄~享保期の社会と昭和末期~平成初期の社会は、いくつかの点で酷似しています。これこそが人口波動による歴史の相似性ということでしょう。

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