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2011年1月

2011年1月31日 (月)

側用人政権

延享3年(1746)10月、家重の意志を取り次ぐ者として、小姓組番頭格・大岡忠光が御側御用取次に任命されます。

大岡は知行300石の旗本の長男で、南町奉行・大岡越前守忠相の遠縁に当りますが、享保9年(1724)8月、16歳で将軍家世子・家重の小姓に抜擢されて、西の丸へ入り、家重の言語を理解できる、唯一の側近として仕えました。この特異な能力が認められて、延享2年、家重が将軍に就任すると、小姓組番頭格式奥勤兼帯御側御用取次見習となり、さらに翌年、御側御用取次に昇格したのです。

寛延3年(1750)2月、幕府は5回めの諸国人口調査を実施して、現将軍の威光を確かめましたが、翌宝暦元年(1751)6月、吉宗は68歳で没しました。吉宗の腹心であった大岡越前守忠相もまた、同じ年の12月に75歳で亡くなっています。

このため、政治の実権はようやく家重―忠光ラインに移りましたが、家重の言動が不明確であったため、自ずから政権の実勢は忠光に移りました。宝暦元年、大岡は上総国勝浦藩1万石の大名に取り立てられ、同4年、5千石加増されて若年寄に進み、宝暦6年(1756)5月には側用人に就任して、さらに5千石加増され、合計2万石となって、武蔵国岩槻藩主に任じられています。こうして、宝暦10年(1760)4月に52歳で死去するまでの約10年間、実質的な執政となりました。

大岡忠光が没すると、家重は翌5月、長男・家治に将軍職を譲って大御所となりましたが、翌年6月、51歳で死去しています。

忠光自身はかなり謙虚で慎重な人物であったようですが、側用人の役目は、常に将軍の傍らにあって上意を下達することでしたから、次第にその威権が老中をしのぐようになりました。このため、吉宗が一旦は廃止した側用人制度を復活させ、次の時代に田沼意次が登場する土壌を形成していきました。

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2011年1月30日 (日)

延享から宝暦へ

ここから【3章「平成享保」から「平生延宝」へ】に入ります。

この章を書いてからほぼ5年、さまざまなご意見やご批判をいただきました。

そのうえ、人口減少が始まって、ほぼ10年、国内の社会情勢も国際情勢も多くく変わってきました。

そこで、2016年12月。この章以降の内容に加筆・修正を加え、電子出版として改めて発表しております。

ご関心があれば、下記にもお目を通していただければ幸甚です。

平成享保・その先を読む・・・人減定着日本展望

(Amazon.Kindle版)

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3章 「平成享保」から「平生延宝」へ)


延享から宝暦へ

「平成享保」は人口がピークになる時代を意味していましたが、人口減少がはじまって10~20年ほど経過すると、世の中はそれなりに変わってきます。

江戸中期でいえば、延享から寛延を経て宝暦まで、西暦1745年から1760年前後に至る15~16年間です。享、暦ですから、省略して「延宝」とよぶことにしましょう。


 当時の人口は、延享元年(1744)の3138万人から、寛延3年(1750)の3101万人を経て、宝暦6年(1756)には3128万人と停滞しています。また政治的な事象では、吉宗の将軍引退から、九代将軍家重の側用人・大岡忠光の死去までの時期に相当します。

延享2年(1745)9月、八代将軍・徳川吉宗は長男家重に将軍職を譲って引退しました。まだ62歳でかつ頑健であったにもかかわらず、あえて引退を表明したのは、人心を一新するためでした。

歴史学者の奈良本辰也は「吉宗の30年に近い治世は、次第に一般から飽きられようとしていた。刑法の改正について、また倹約令の細かい施行について、あるいは検地・山林開発などのことについて、さまざまな批判が起こっていた」と述べています(『日本の歴史17・町人の実力』中公文庫・1974)。

同じく歴史学者の大石慎三郎も、第1は「なんといっても3O年もという長い治世であり、吉宗政権に対する飽きもけっして無視できぬものであった。このあたりで人心を一新しておいてからその完成にとりかかる」ためであり、第2は「不肖の嗣子家重の地位を、自分が元気なうちに確立しておいてやりたい、という親心が強く働いていた」と指摘しています(『田沼意次の時代』岩波書店・1991)。

このことを傍証するのは、翌10月、吉宗政権の後半を支えてきた勝手掛老中・松平乗邑を突然罷免したことです。急速に権力を伸ばしてきた乗邑を排除して、政治の一新を天下に示し、同時に将軍親政を取り戻して、家重への安定的な譲渡を狙ったのです。

かくして11月2日、家重は九代将軍に就任しました。しかし、彼は生来の病弱に加えて、言語が不明瞭であったため、吉宗はなお大御所として後見に努めざるをえませんでした。ところが、こうした権力の二重構造が、家重をして、ますます政治から遠ざけることになりました。

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2011年1月25日 (火)

再開の前に

これまでの各章をお読みいただいて、人口波動論に関心を持っていただけたでしょうか?

3章に入る前に、関連するサイトを載せておきますので、

もし、お時間があれば、お立ち寄りいただけば幸いに思います。

   ①現代社会研究所・人口波動サイト

   ②同・人口減少社会を生きる

   ③同・濃縮社会を展望する

   ④同・平成享保

よろしくお願いします。

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2011年1月23日 (日)

インターミッション

いつも「平成享保のゆくえ」をご愛読いただきまして、ありがとうございます。

数通のメールもいただき、ご感想、ご激励のお言葉に深く感謝しております。

このブログも開始以来、1ヶ月を過ぎ、序章・平成享保の時代、1章・享保時代を振り返る、2章・平成前半を確かめる、の各章を終わりました。

3章からは、いよいよ平成時代後半の展望に入っていく予定です。

そこで、その前に、数日お休みをいただき、これまでの論述を見直させていただきます。

同時に、ご愛読の皆様方に、もしご意見、ご感想があれば、できるだけ反映していきたいとも思っております。

つきましては、まことにお手数ですが、以下のコメント欄をクリックしていただき、なんなりとご記入いただければ、大変嬉しく思います。皆様からのご感想をお待ちしております。

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2011年1月22日 (土)

新たな諸色とは何か

ところが、享保時代にはもう一方で「諸色高」という現象が進んでいました。「米価安の諸色高」ですが、平成時代に当てはめれば「工品安の××高」ということになります。平成の「××」には、どのような言葉を入れればいいのでしょうか。やはり消費者物価指数の長期的な推移を眺めてみると、3つの指数の変化が注目されます。

1つは農水畜産物の動きです。1990年代までは一貫して総合指数より高めに推移してきましたが、2000年代に入ると、2000~03年はやや低めに落ちたものの、04年以降は国際的な穀物価格の上昇を受けて、やや高めに戻っています。

2つめは石油製品と電気.都市ガス.水道です。70年代~80年代前半は第2次石油ショックの影響で極端な乱高下を示した後、80年代後半から2005年までは総合指数よりかなり低めに推移してきました。しかし、06年以降は国際的な投機資本の介入を受けて、08~09年に再び乱高下しています。

3つめは外食.医療.福祉.教育などの一般サービス(公共サービスを除く)です。1970年以降、一貫して総合指数より低く推移してきましたが、2000年代に入ると、総合指数に近づいて、ほぼ同レベルで動くようになっています。20世紀中はかなり廉価であったものが、21世紀に入ると、一気に高くなってきたということです。

以上の3トレンドの意味しているものこそ、平成の「××」ではないでしょうか。工業製品の価格は1990年代初頭にピークを記録した後、徐々に低下し、総合指数にも影響して、デフレーションを引き起こしていますが、これら3トレンドはその流れから外れているからです。

つまり、農水産物や石油製品は、国際市場の影響を強く受けて、デフレ傾向とは無関係な動きを示しています。自給率の極めて低い両分野では、国内の需給バランスを大きく超えて、国際的な需給バランスや商品投機市場の影響が直接現れます。このこと自体が、加工貿易文明に立脚する、現在の人口容量の、必然的な結果ともいえるでしょう。

また一般サービスの漸進的な上昇は、工業生産に比べて、労働生産性の急激な上昇が困難であるからです。そのうえ、15~64歳の労働力人口が漸減していますから、サービス価格はますます上昇します。ここにも人口減少社会の必然性が現れています。

とすれば、平成の「諸色」とは、工業製品の生産・輸入の枠外にある、海外からの食糧やエネルギーと、国内の人的サービス、いわば「非工業製品」ということになるでしょう。結局、平成時代には「工業製品高の非行製品安」、つまり「工品安の非工高」が進んでいくのです。

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2011年1月21日 (金)

工業製品は安くなる

人口容量が飽和した社会では、その容量を支える、中心的な物質の価格が低下します。加工貿易文明ではいえば、それは工業製品ということになるでしょう。

消費者物価指数(2005年=100)で工業製品の長期的な推移を見ると、図表に示したように、1970年の42.1から80年の91.6を経て、92~93年に108.9でピークとなり、その後はかすかに増減を繰り返しながら、2009年には99.7まで下がっています。Photo_2 

これに伴って、総合指数も、1970年の33.0から80年の78.1を経て、98年に103.3でピークとなり、微減微増の後、2009年には100.3まで下がっています。物価が継続的に低下する、いわゆるデフレーションですが、この背景には需要の減少と供給の増加が考えられます。

需要の減少では、消費主体である人口の減少と経済停滞による消費の萎縮が重なっています。人口減少の影響は、総人口の減少に加えて、人口構成の上昇による消費主導層の減少、長寿化による消費性向の変化などに現れています。また経済停滞の影響で、所得の減少、失業者の増加、先行き不安など、消費行動を抑制する傾向が強まっています。

一方、供給の増加では、工業生産力の持続.増加と輸入量の拡大が影響しています。工業製品の生産力が維持、拡大されているのは、これまでの生産設備や生産ノウハウが持続され、生産性も上昇しているからです。

製造業の従業員数は、大企業で2001年の282万人から04年の248万人を経て06年には256万人、中小企業で01年の814万人を経て、04年の746万人、06年の736万人へ減っています。両者を合計すると、01年の1096万人から06年の992万人へ104万人も減少しています(2009年版中小企業白書)。

ところが、製造業の労働生産性を示す「従業員1人当たり粗付加価値額」の推移を見ると、大企業では1990年の1260万円から2000年の1420万円を経て、07年には1850万円まで上昇しています。中小企業でも、90年の580万円から00年の570万円を経て、07年には670万円まで上りました(同)。

このように、従業員の数が減っているにもかかわらず、生産性が上昇していますから、なお生産力は増加しています。生産力が落ちないところへ、世界的不況で輸出も停滞していますから、必然的に国内向けが増えます。だが、国内需要は落ちていますから、製品の価格は低下します。

他方、海外からの輸入品も増加しています。工業製品でいえば、1990円の171兆円から2000年の250兆円を経て、07年には412兆円に達しています。しかし、09年には不況に影響で289兆円まで減っています。金額はやや減りましたが、新興国の急速な工業化によって、輸入品の価格はかなり低下しています。

結局のところ、一方で需要が減少しているのに、他方では国内生産力の拡大と廉価な輸入品の増加で供給量が増えていますから、供給過剰がますます進行します。供給過剰が進めば、必然的に工業製品の価格は低下します。これが「工業製品安」の背景です。

加工貿易文明の限界で人口容量が満杯になった以上、工業製品の需給が逼迫して、その価格は上がるはずです。にもかかわらず、物価が逆に下がっているのは、まさしく享保時代の「米価安」と同じ現象といえるでしょう。

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2011年1月20日 (木)

グローバル化の限界

3つめのグローバル化も、手放しで肯定することが困難になっています。

第2次世界大戦後の日本は、世界中の国々と貿易や交流を拡大することで、資源・エネルギー・食糧を輸入し、1億2800万人の人口容量を作り上げてきました。これが可能になった背景には、戦後の世界で、各国国民の行動が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、地球規模に拡大する、いわゆる「グローバル化」の進行がありました。

とりわけ、ソビエト連邦が崩壊した1992年以後は、運輸・通信技術の急速な発展や冷戦終結後の自由貿易圏の拡大などを利用して、アメリカの政府や企業が、国境を越えた貿易や投資など多彩な経済活動を展開しました。その結果、アメリカ型の市場原理主義・新自由主義が、世界各国を席巻し、市場経済の一極化を促進しました。

日本もまた、この波に乗って、自動車や家電製品の輸出を拡大し、資本の投資を推し進めてきました。つまり、こうした世界経済システムによりそうことで、経済的繁栄と人口容量の確保を達成してきたのです。

ところが、近年、グローバル化の利点だけでなく、むしろ欠点が目立つようになってきました。もともとグローバル化には、①安い輸入品の増加や多国籍企業の進出などで、市場競争力の弱い国内企業が衰退するため、労働条件の低下や失業が増加する、②投機資金の短期的な流出入で、為替市場や株式市場が混乱し、実体経済を脅かす、③他国からの企業進出や投資によって、国内で得られた利益が国外へ流出する、④厳しい国際競争に耐えられる経営体質への転換が求められるため、労働条件や環境条件が緩和され、社会福祉水準が低下する、⑤アメリカ型市場原理主義の流入で、自国の社会・経済システムや固有の文化・価値観が破壊される、といった問題点が潜んでいました。

90年代以降の日本でも、これらの欠点がすでに目立ちはじめていました。にもかかわらず、自由民主党政権がさらにグローバル化を進めたため、2007年以降になると、はっきりとマイナス現象が現れるようになりました。

アメリカ発の世界不況はそのまま国内に浸透し、輸出量の激減や外国人投資家の大量引き揚げなどで、過度の経済縮小を招きました。また発展途上国からの廉価な輸入品の氾濫でデフレーションが進行し、これに耐えられない企業の中には給与や労働条件の引き下げを行ったり、倒産に追い込まれるケースも増えています。

ここまで経済状況が悪化してくると、賃金水準の低下、正社員の縮小、派遣社員の解雇などが拡大し、失業率は上昇、生活水準は低下といった事態が起こり、それがまた内需の減少を招いて、企業収益を悪化させています。

このようにグローバル化は、一方では資源・エネルギー・食糧の調達を可能にし、廉価な工業製品の購入を可能にすることで、人口容量を広げはしましたが、もう一方では国内企業の輸出力や経営力を弱め、国内経済を混乱させることで、逆に人口容量へ足かせをはめようとしています。ここまでくると、手放しのグローバル化信仰は、今一度再検討すべき時期に至ったのです。

いうまでもなく、幕末の開国以来のグローバル化を直ちに放棄することなど、とてもできるものではありません。だが、その内容や範囲については、少しずつ修正していくことが必要なのではないでしょうか。

例えば、海外からの野放図な企業進出や資本流入などに対しては、自国民の利益を損なわないような、適切な倫理基準を要求することが必要です。過剰な外需志向経済を是視して、人口減少社会にふさわしい内需産業を再構築し、改めてそれらを輸出できるような、経済・産業構造をめざすことも必要です。あるいは、2020年代以降、間違いなく襲ってくる食糧やエネルギーの国際的な逼迫を考えると、自給力の再構築も急務です。とすれば、従来の漫然たるグローバル化信仰を見直して、利点欠点を取捨選択できる、半ばクローズドな方向を模索しなければなりません。

以上のように、加工貿易文明はさまざまな側面で限界を示しはじめています。これらの限界の顕在化によって、平成享保の日本社会は次第に飽和の色を濃くしているのです。

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2011年1月19日 (水)

市場経済制度の限界

市場経済制度についても、限界が見えてきました。1980年代後半に内需主導の経済成長を実現し、一時は世界中から羨望された、日本型の市場経済や経営システムも、90年代にバブル崩壊で大不況に陥ると、それぞれに内在する諸矛盾を露呈しました。

2000年代に入って、不況を乗り切るため、小泉政権が採用した経済政策は、小さな政府をめざして市場競争を強化し、公平と繁栄を実現しようとする新自由主義でした。アメリカの共和党政権やイギリスのサッチャー政権にならったもので、いわゆる市場原理主義を日本の経済・社会政策に適用したものです。

この政策によって、その後の日本はバブル崩壊後の長期不況からなんとか脱出し、GDPの実質成長率をプラス2%台に戻しました。失業率・有効求人倍率も大幅に改善しました。とはいえ、07年の名目GDPは、1997年とほぼ同水準の515兆円で、10年前の経済規模に戻ったにすぎません。

このため、景気回復の効果が一部の高所得者や大企業に偏在し、国民一人ひとりには達していないと、むしろ所得格差の拡大を指摘する声が広がりました。とりわけ、新自由主義的政策に基づいて、小泉内閣が実施した、労働者派遣法の規制緩和で、企業側は正社員を絞り、派遣社員を急増させました。その結果、2000年2月から2009年3月までの10年間で、正規雇用は3630万人から3386万人と240万人減少したのに対し、非正規雇用は1273万人から1699万人へ、430万人も増加しています。

また企業が労働者に支払った給与の総額は、1998年から2007年の10年間に22兆円も減少しており、労働者の平均給与では減少傾向が続いています。国税庁の民間給与実態統計調査によれば、1997年の労働者の平均給与は467万3000円、年収200万円以下の労働者は814万1000人で、労働者全体の17・9%でしたが、2007年には平均給与は437万2000円に減少、年収200万円以下の労働者は1032万3000人となり、労働者全体の22・8%へと増加しています。

さらに07年以降、アメリカで露見したサブプライム住宅ローン問題や、リーマン・ブラザーズの破綻を契機とする世界金融危機の影響で、日本経済は再びマイナス成長に陥りました。このため、派遣社員や非正規社員を大量に解雇する「派遣切り」が拡大し、対象者は給与だけでなく住居も奪われるという事態に追い込まれました。解雇された派遣社員の中には、生活苦が原因で強盗や殺人に走るもの、世の中を恨んで路上で刃物を振り回すもの、あるいは収入が途絶えて餓死するものも現れ、深刻な社会問題となりました。

こうして80年代までの人口容量を支えた日本型の経済・経営システムは、今後の進むべき方向を見失ってしまいました。

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2011年1月18日 (火)

停滞する科学技術

科学技術でいえば、これまで日本の輸出品を代表してきた乗用車や家庭電化製品について、その品質や競争力にさまざまな懸念が広がっています。

乗用車では、日本が最先端を走っていたハイブリッド車の安全性や、世界各国で急拡大してきた電気自動車への対応などの面で、緊急の課題が増加しています。2009年、アメリカでトヨタの乗用車に安全性が問題化したため、2010年1月、同社はアクセルペダルの部品不良として、約230万台にリコールをかけ、さらに1月末、中国やヨーロッパでも、同じ部品を使ったアクセルペダルの不具合で、各国にリコールを届け出ました。

2月になると、日本国内でもハイブリッド車「プリウス」など4車種ブレーキの不具合が発見されたため、国土交通省に約22万台のリコールを届け出ています。その結果、リコール対象車は全世界で約40万台に達し、これまで「安全・高品質・故障が少ない」を売り物に、世界市場を席巻してきた、トヨタのイメージも大きく崩れました。

世界の乗用車市場では今後、エネルギーの効率化や低炭素社会の実現にむけて、本格的な電気自動車に期待が集まっています。電気自動車の外観は、ガソリンエンジンの自動車とほとんど同じですが、動力構造がまったく異なるため、その普及にともなって、各国の競争力を大きく変える可能性を秘めています。

従来の自動車企業は、高度で複雑な技術が求められるエンジンを内製化し、その改良や進化を武器にしてシェアを拡大してきました。だが、電気自動車の動力源であるモーターは、電機業界に広く普及している既存技術の1つであり、外部から容易に調達することができます。もう1つのコア技術である蓄電池も、工業的な技術に加えて化学的なノウハウが必要なことから、電機メーカーや電池メーカーと提携して開発や生産を行うことになります。このため、約3万点という自動車の部品数も、5分の1から10分の1に減りますから、生産工程もかなり簡略化でき、価格も大幅に下がります。

そうなると、電気自動車には、自動車メーカーに加えて、電機メーカーや化学メーカーなども参入してきますし、さらには中国、インド、ベトナムといったアジアの新興国でも、容易に乗用車を製造できるようになります。つまり、日本の優先性や競争力は次第に落ちていくのです。

家庭電化製品を代表する薄型テレビや液晶パネルでも、日本企業の優位性は次第に低下しています。2009年、薄型テレビの世界シェアでは、1位はサムスン電子、2位はソニーとLG電子、3位はパナソニック、4位はシャープの順で、サムスンとLGの韓国企業が36%を占めています(米・ディスプレイサーチ社の調査)。

液晶テレビ、ノートパソコン、モニターに使われている液晶パネルの世界シェアでも、1位はサムスン電子、2位はLGディスプレイであり、韓国の2社で50・9%と過半数に達しています。続いて3位AUO(友達),4位CMO(奇美電)、5位ハンスターと、台湾勢が続き、その合計は42・3%となっています。韓国と台湾で9割を超えており、日本勢ではようやく6位にシャープが入る状況です(米・ウイッツビィユー社の調査)。

今後の液晶テレビ市場を展望すると、中国では中国産ブランドが台頭し、北米や欧州ではサムスンとLGがシェアを伸ばし、BRICsのような新興市場でも韓国メーカーが進出してきます。とすれば、電化製品でも日本の地位は次第に低下していきます

このように、加工貿易を続ける上で、最も基礎となる科学技術にも、すでに限界が現れています。

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2011年1月17日 (月)

加工貿易文明の壁

ところが、世紀をまたぐあたりで、この人口容量は満杯になりました。それは容量を支える内外の条件が変わってきたからです。

1億2800万人もの容量を生み出した「加工貿易文明」の中核は、いうまでもなく日本人の技術力や商品開発力でした。それによって貿易を拡大し、食糧や資源を購入することができたからです。だが、それだけではありません。もっと大きな理由があります。

というのは、20世紀の世界において、一部の工業先進国だけが高価な工業製品を生産し、大半の発展途上国が農業生産を担当する、というアンバランスな国際構造が残っていた、という事実です。こうした環境の下では、工業製品の価格が農産品より必然的に高くなりますから、高い工業製品を売って安い農産品を買うのは極めて懸命な方法でした。

だが、21世紀の世界では、急速に逆転がはじまっています。世界の産業分布を見れば、発展途上国の多くが工業生産を拡大した結果、工業製品が供給過剰になりつつあります。代わって、農産品は工業化に伴う労働力の減少や農業用地の縮小などで、次第に供給不足へ向かっており、それに伴って価格も上昇しはじめています。さらに今後、人口爆発の危険性が高まるにつれて、食糧・資源・エネルギーなどの需給が逼迫し、穀物や石油の価格はいっそう高騰するでしょう。

こうなると、食糧の値段はますます上昇し、21世紀には間違いなく「工業製品安・農業産品高」の傾向が強まります。石油が高騰すれば工業製品の価格も上がる、と思いがちですが、圧倒的な供給過剰のもとでは一時的にすぎず、まもなく沈静化します。その結果、電気製品や自動車を売って、大量の食糧を買うという構造は徐々に不可能になっていくでしょう。

これこそ、私たちの頭上に重くのしかかっている、厚い壁の実態なのですが、これを突破するのはかなり困難です。なぜなら、「加工貿易文明」そのものを支える、3つの要素、つまり科学技術、市場経済制度、グローバル化のそれぞれに、ある種の翳りが見えはじめているからです。

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2011年1月16日 (日)

富国強兵から経済大国へ

この3つに支えられた「富国強兵」制度は、明治、大正、昭和前期と順調に人口容量を伸ばしてきましたが、1940年代に至って太平洋戦争の敗戦により一旦は停止状態に追い込まれました。ところが、1945年以降、人口は再び急増をはじめます。

それを可能にしたのは、科学技術化、日本型市場経済化、グローバル化の3要素を基盤とする「経済大国」という新しい目標でした。このように書くと、「富国強兵」から「経済大国」へと、国家目標が一変したかのようにみえます。だが、そうではなく、「経済大国」を支える基盤は、明治以来の文明開化、殖産興業、脱亜入欧の3大政策を、形を変えて継承したものにすぎません。

第1の文明開化は戦後、アメリカ型ライフスタイルを目標とする生活構造やそれを支える西欧文明への強い憧れとなって、欧米型科学技術の導入に一層拍車をかけました。その結果、1980年代の後半までに、日本は世界最先端の応用型科学技術を誇るハイテク国家となりました。

第2の殖産興業も、戦後はアメリカ型市場経済・経営システムを導入し、それを基盤に独自に改良を加えた日本型市場経済や日本型経営システムを創りだし、世界に冠たる経済力を誇るようになりました。

第3の脱亜入欧は、アジア諸国の目覚しい発展によって「入亜」あるいは「協亜」に変わりましたが、加工貿易体制を維持、拡大していくためには、アジア、欧米はもとより、世界各国と外交や通商を行なうグローバル化が必要、という姿勢に継承されています。

以上のように、戦前の3政策は、「文明開化」は「科学技術」へ、「殖産興業」は「日本型市場経済」へ、「脱亜入欧」は「グローバル化」へとそれぞれ戦後に引き継がれました。そして、この3つに支えられた「加工貿易文明」によって、戦後のわが国は約1億2800万人の人口容量を構築しました(詳細は古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)。つまり、資源・エネルギーを輸入して高付加価値の工業製品を製造し、それらを輸出した収益で食糧・資源を購入する、という体制を作りだし、完全な自給自足であれば7200~7600万人程度の人口容量を、ほぼ2倍にまで拡大することに成功したのです。

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2011年1月15日 (土)

加工貿易文明を支える3本の柱

これまで見てきたように、平成初期の20年間は、それまでの成長・拡大社会が終焉し、飽和・濃縮社会への移行がはじまる、一大転換期の様相を示しています。この背景には、やはり工業現波を支える人口容量の飽和化が潜んでいます。人口容量はなぜ限界に達したのでしょうか。それはこの容量を支える環境や条件が大きく変わってきたからです。

もともと1億2800万人もの人口容量は、企業を中心にする経済主体が、世界中から資源やエネルギーを集めたうえで、科学技術を応用して高価な商品を作り出し、その対価で食糧や資源を調達する、という社会的なしくみ、いわば「加工貿易文明」とでもいうべき文明によって生み出されたものです(詳細は古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)。

この文明は、江戸時代の後期にはじまって、明治維新の後、急速に進展しました。江戸後期に西欧から導入された、初期的な工業国家制度は、明治維新後になると、明治政府が主導した、文明開化、殖産興業、脱亜入欧を支柱とする「富国強兵」制度として、とりあえずスタートしました。

第1の文明開化とは、欧米の先端的な生活様式や科学技術を可能な限り導入しようとするもので、基礎科学、基盤技術、産業技術の3面でめざましい成果をあげました。同時にこれらの技術を応用して農業生産も大きく変貌し、土地改良、肥料の増投と施用法、品種改良、農具の改良・普及などで、国内の食糧生産量を著しく拡大させました。

第2の殖産興業政策とは、西欧の市場経済制度を導入して、近代国家にふさわしい新たな産業を興そうとするもので、これまた短期間に産業革命をなしとげました。1870年代に欧米の制度を導入して生み出された〝会社〟という組織は、90年代の日清戦争前後に繊維・紡績工業を中心とする軽工業部門と、政府主導による鉄鋼業などの重工業部門に分かれて、それぞれ産業革命をなしとげます。1900年代初頭の日露戦争の後、造船、金属、機械工業などへも波及し、10年前後に全産業での革命を達成しました。

そして第3の脱亜入欧とは、当時、後進地域であったアジアを脱し、先進地域であるヨーロッパの国々と肩を並べようとするもので、鎖国体制が終わった後の国際感覚を明確に示しています。

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2011年1月14日 (金)

平成10年代の社会と世相

平成10年代に入ると、外需主導のいざなみ景気で経済はやや回復したかに見えましたが、デフレ基調は相変わらず続き、08年以降は世界同時不況の影響を受けて、再び深刻な不況に陥りました。

こうした経済環境にもかかわらず、インターネットを中心とする情報化は急速に進行しました。21世紀のコミュニケーションツールとして、急速に定着したインターネットでは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、ブログ、ツイッターなどの新サービスが登場し普及しました。一般家庭でも、DVDレコーダー、デジタルカメラ、液晶テレビが「デジタル三種の神器」として定着し、著しく多機能化した携帯電話も、年齢層を超えて拡大しました。

ところが、経済停滞が深刻化するにつれて、自由競争と市場原理を重んじる小泉改革の影響が浸透し、急速に進展した格差拡大のマイナス面が目立つようになりました。ヒルズ族に代表される新富裕層が台頭する一方で、派遣社員やネットカフェ難民など、ワーキングプアも増加しました。正社員でも、給与の減少や過度の人員削減などで、過労死や過労自殺に追い込まれるケースが拡大しました。

追い詰められた人々の中には、異常な犯罪に走るものも現れ、土浦連続殺傷事件(平成20年=2008)岡山駅突き落とし事件(同)、秋葉原通り魔事件(同)、大阪市パチンコ店放火事件(平成21年=2009)などが起きています。青少年の犯罪も増加し、西鉄バスジャック事件(平成12年=2000)、東名高速バスジャック事件(平成20年=2008)が発生しています。

幼児や高齢者など弱者を対象にした犯罪も増加しました。高齢者を狙った振り込め詐欺が各地で多発し、高齢者虐待防止法に違反する現行犯も増えています。小学生を対象にした、京都小学生殺害事件(平成11年=1999)、大阪教育大附属池田小児童殺傷事件(平成13年=2001)なども相次いで発生しました。

いずれの現象にも、人口容量の壁に突きあった環境下での、閉塞感や焦燥感が濃厚に現れています。

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2011年1月13日 (木)

平成10年代の政治・経済

平成10年代(1998~2007年)に入っても、経済の停滞は遅れ、政治もまた混迷を続けていました。

平成11年(1999)3月、小渕恵三内閣は、景気回復対策として、日本銀行がゼロ金利政策を実施しました。平成12年(2000)4月、小渕の急死で、森喜朗が内閣総理大臣に指名されましたが、内閣支持率が低迷し続けたため、平成13年(2001)2月に森は首相を退陣しました。

平成13年(2001)4月、小泉純一郎内閣が発足しました。この年の9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が発生し、国際情勢は大きく動揺しました。平成14年(2002)9月、小泉は日本の首相として初めて訪朝し、金正日総書記に日本人拉致問題を公式に認めさせ、同年10月に拉致されていた日本人5人が帰国しました。

平成17年(2005)から、人口が減りはじめました。その年の夏、小泉の進める郵政民営化法案に反対して、自由民主党を脱退した議員らが国民新党や新党日本などを結成しました。だが、9月の衆議院議員総選挙で、自由民主党は296議席と記録的に圧勝し、与党は衆議院の3分の2を超える議席を獲得しました。これに勢いを得て、小泉政権は10月、日本道路4公団の民営化や郵政民営化関連法案を成立させました。

平成18年(2006)9月、小泉の任期満了で、安倍晋三が内閣総理大臣に指名されましたが、平成19年(2007)7月の参議院議員選挙で自民党は大敗したため、9月、安倍は内閣総理大臣を辞任しました。続いて福田康夫が内閣総理大臣に就任しましたが、支持率低迷のため、平成20年(2008)9月、辞意を表明しました。

この年の9月16日、アメリカ証券会社大手リーマン・ブラザーズの経営破綻に伴い、いわゆるリーマンショックが発生しました。9月24日、麻生太郎は内閣総理大臣に指名され、12月12日、総額23兆円規模となる緊急経済対策、『生活防衛のための緊急対策』の概要を発表しました。しかし、経済は急速に悪化し、国内総生産の実質成長率はオイルショック以来、34年9ケ月ぶりのマイナス3・7%に低下しました。

平成21年(2009)8月、衆議院議員総選挙で、自由民主党は結党以来の大敗を喫したため、民主党・社会民主党(社民党)・国民新党の3党連立政権が発足し、9月16日、民主党党首の鳩山由紀夫が内閣総理大臣に就任しました。しかし、経済はほとんど回復せず、09年の国内総生産はマイナス5・2%となりました。

平成22年(2010)6月、鳩山内閣は、政策秘書の政治資金規正法違反事件や米軍普天間飛行場移設計画への失政で退陣し、代わって民主党党首に就いた菅直人が、内閣を組織しました。

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2011年1月12日 (水)

平成初期の社会と世相

政治・経済情勢が変わる中で、平成初期の社会や世相もまた大きく動揺しました。

バブル崩壊による経済低迷によって、不動産市場では地価が下落し、流通市場ではディスカウントストアやアウトレット商品の拡大などで「価格破壊」が進行しました。企業の業績は悪化し、失業率も低下しました。平成4年(1992)以降、新卒者には就職氷河期が、中高年サラリーマンにはリストラが拡大しています。

先行きが不透明になると、ヘアヌード写真集やディスコブームなど、刹那的、頽廃的な消費行動も広がりました。ジュリアナ東京のお立ち台では、ボディコンギャルが踊り狂っていたのです。若者の流行の主役も、それまでの大学生やOLから女子中・高生に移行し、ルーズソックスや短スカートを流行させた「コギャルブーム」が起きました。

一方、中・高校では不登校や引きこもり問題が深刻化し、少年による暴行・強盗や、サラリーマンを狙った「オヤジ狩り」なども頻発しました。さらには、女子高生コンクリート詰め殺人事件(平成元年=1989)、神戸小学生連続殺傷事件(平成9年=1997)など、若者による凶悪犯罪も多発しています。

20世紀の終わりが近づくと、世紀末ブームが起こりました。かつてのベストセラー『ノストラダムスの大予言』(五島勉著・昭和48年=1973)以来、「1999年に人類は滅亡する」という俗信が流布していましたから、先行きに不安を感じた若者たちが、自己発見セミナーや新宗教などに殺到する事態も広がりました。

その中には反社会的な行動に走るグループも現れ、松本サリン事件(平成6年=1994)から、地下鉄サリン事件(平成7年=1995)、警察庁長官狙撃事件(同年)を経て、教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の逮捕(同年)に至る、一連のオウム真理教事件は、世の中を震え上がらせました。

一方、情報関連技術も急速に進展しました。ビジネスではインターネットの進展に伴ってIT化が急進しましたが、一般家庭にもパーソナルコンピュータが浸透し、携帯電話も爆発的に普及しています。

以上のように、平成初期の世相には、人口増加から減少へと向かいはじめた転換期特有の不安、終末、転換といったムードが濃厚に漂っています。これこそ「平成享保」という飽和期の気分といえるでしょう。

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2011年1月11日 (火)

平成初期の政治・経済

「平成享保」という造語のうち、「享保」については前章で解説してきましたので、この章では「平成」を振り返ってみましょう。

平成という時代は、平成元年(1989)1月8日、元号が「平成」に改元された時からはじまりました。日本の人口はこのころから停滞し、平成16年(2004)に1億2780万人でピークを超えて、平成17年から減りはじめ、その後80~90年間減っていきます。

この時代とはどのようなものであったのか、まずは最初の10年間、つまり平成初期(1989~97年)を眺めてみると、政治と経済は次のようなものでした。

平成元年6月、昭和末期から政権を担ってきた竹下登内閣は、消費税法の実施などで支持率が低下し、退陣に追い込まれました。ところが、経済は順調で、内需は過剰なほど拡大し続け、同年12月29日には、日経平均株価が史上最高値の3万8915円を記録、いわゆる「バブル経済」の絶頂に達しました。

そこで、同年8月に成立した海部俊樹内閣は、12月に土地基本法を成立させて地価の抑制を計り、翌平成2年(1990)3月には融資規制政策を実施しました。これらの政策が浸透するにつれて、景気は後退しはじめ、いわゆる「バブル崩壊」がはじまりました。

平成3年(1991)、当時の海部内閣は、11月に政治改革への食言問題で崩壊し、宮沢喜一内閣が発足しました。平成4年(1992)5月、東京佐川急便の不正融資事件が発覚し、8月には自民党副総裁金丸信への5億円の政治献金事件が浮上しました。政治腐敗の表面化で自民党政治に対する批判が高まり、同年5月に細川護煕前熊本県知事が日本新党を結成しました。

他方、日本経済は、バブルの崩壊と急激な円高などが重なって、戦後2番目に長い低迷に陥っていました。こうした中で、平成5年(1993)6月、宮沢内閣は不信任案を可決され、衆議院の解散に追い込まれました。自民党は分裂し、7月の総選挙で新生党と日本新党が躍進し、8月には非自民・非共産の細川護煕連立内閣が発足し、いわゆる55年体制が崩壊しました。

だが、細川首相は翌年4月、資金運用にからむ不祥事で突然退陣し、4月25日に衆参両院は新生党、公明党、社会党など連立与党が、新生党党首の羽田孜を首相に選出しました。その直後、新生党など与党5党派は新たな衆院統一会派として「改新」の結成を発表しましたが、反発した社会党が政権から離脱したため、羽田政権は短命に終わりました。

6月29日、自民、社会、新党さきがけが連立して、村山富市内閣を発足させました。村山首相は、7月の臨時国会で自衛隊を合憲とする、社会党の基本政策の転換を表明し、8月には衆院選挙区画定審議会から小選挙区区割り法案が勧告されて、11月に300小選挙区の区割りが決定しました。

平成7年(1995)、1月の阪神・淡路大震災、2月の東京協和・安全両信用金庫問題、3月の地下鉄サリン事件と、従来の社会構造を根幹から揺さぶるような大事件が相次いで発生し、村山政権はその対応に忙殺されました。

平成8年(1996)、1月に村山首相が退陣し、自民党の橋本龍太郎内閣が発足し、平成9年(1997)4月、3%から5%への消費税増税を実施しました。平成10年(1998)になっても、景気は一向に回復の兆しを見せなかったので、3月、自民党は10兆円規模の追加景気対策を表明しました。他方、民主党は4月、民政党、新党友愛、民主改革連合を合流させ、「新・民主党」を結成しました。

平成10年(1998)7月の参議院選挙で自民党は大敗し、橋本内閣は総辞職したため、小渕恵三内閣が発足しました。

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2011年1月10日 (月)

諸色は上がる

一方、諸色が上がったのは、元禄期以降、生活水準を高めた人々が、新たな需要を求めはじめていたからです。

従来の常識によると、江戸中期の日本では、人口減少や農業生産の鈍化などで、経済もまた〝停滞〟した、といわれてきました。だが、実際に推計してみると、国民1人当たりの生活水準はかなり向上しました。

農民でいえば、1730年以降、農業人口や耕地面積は確かに減少しましたが、それにもかかわらず、農民1人当たりの実収石高は上昇に転じています。1650年前後に1・35石であった1人当たりの実収石高は、1730年前後には1・02石にまで下がっていましたが、ここから上昇に転じ、1750年には1・09石、1800年には1・23石まで上がりました(速水・前傾論文)。

この背景には、先に述べたように、1人当たり耕地面積の拡大や、さまざまな農業技術の改善がありました。さらには農業の余業として加工業収入も増えていますから、実収入はもっと増加していた可能性があります。つまり、人口が減ったにもかかわらず、否、人口が減ったせいで、1人当たりの所得はかなり増えていたのです。

ここまで所得が上がってくると、自給自足を基本としていた農民層もまた、折から拡大してきた貨幣を使用して、干魚、綿布、櫛、簪など新たな選択財を求めるようになります。一旦、自給自足を破ると、さらに貨幣が必要になってきますから、彼らは野菜、綿、菜種、藍、紅花、大麻、養蚕など、商品として売るための生産物を増加させていきます。

他方、町人でいえば、17世紀以降の急速な都市の発展や、それに伴う商工業の拡大で、非農民の都市庶民層が急増しました。城下町や宿場町では、新興の商人や手工業者が増加し、農産物の加工や手工業品の生産や流通を拡大させました。さらに江戸、大坂などの大都市では、呉服商、材木商、米穀商、輸送業者、金融業者などが増加し、経済力を蓄えていきます。また都市の庶民層でも、大工や左官、手工業の職人、屋台や振り売りなどの流通業者などが増加し、衣食住それぞれの需要を拡大していきました。

こうして、諸色、つまり米以外のさまざまな生活物資の需要が急増大しましたが、供給力の拡大は遅れていましたから、物価全体は上昇していきました。物価(1840~44年を100とする京坂一般物価指数)の推移を大まかに辿ると、1730年頃の60から1740年頃には120まで上がっています(宮本又郎「物価とマクロ経済の変動」)。

10年で2倍にも上がった、直接の要因はやはり商品の供給不足でした。だが、もう1つは、幕府が米価の上昇をめざして、元文1年に実施した元文改鋳、つまり貨幣悪鋳が影響したためです。貨幣が瞬時に増加したため、その価値が急落し、諸物価が高騰したのです。これによって、米価も上昇しましたが、諸物価はそれ以上に上がりました。米価高は実現できましたが、諸色安には失敗したのです。

結局のところ、享保という時代は、「米価安の諸色高」というしがらみを解決できないまま、次の時代へ残していきました。

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2011年1月 9日 (日)

米価安のパラドックス

当時の物価には、1720年ころから「米価安の諸色高」という現象が現れていました。基本財である米の価格は低下し、「諸色」つまり「さまざまな物資」の価格が上昇することです。この傾向は19世紀初頭までほぼ一貫して続き、米価が上がると諸色が下がり、米価が下がると諸色が上がるというように、ほぼ逆の関係を示しています。

1730年代に人口がピークになったのは、人口容量の壁にぶつかったためです。集約農業文明の停滞で、農業生産が伸びなくなったことが基本的な要因です。とすれば、供給が不足したわけですから、米価は上昇するはずです。にもかかわらず、米価安になったのはなぜなのでしょう。

一口でいえば、農業の生産性が改善されて米の供給量が維持される一方、人口の停滞で需要量は減少したという、需給両面の変化です。先に述べたように、18世紀に入ると、米の実収石高は17世紀の年間伸び率0・32~0・56%から0・22%へ低下し、耕地面積も年間伸び率が0・26~0・38%から0・15%へほぼ半減しています。

しかし、生産量そのものは減ることなく、むしろ微増しています。この背景には、1人当たり耕地面積の拡大、田畑輪作や二毛作の開始、備中鍬や踏車などの新農機具の開発、干鰯や油粕などの肥料の投入、数百種の稲などの品種改良、綿や菜種など作物の多様化、木綿や生糸など農産加工物の拡大など、農民1人当たり労働生産性を上げるような、農業技術のさまざまな改善があったからです(速見・前掲論文)。

他方、人口の方は、人口容量の制約が強まるにつれて自ずから停滞し、ピークを過ぎても静止状態にはならず、緩やかに減少しました。きっかけとなったのは気候悪化が引き起こした飢饉でしたが、本質的な要因は、人々の間で起こった、直接的あるいは間接的に人口を抑制する、さまざまな行動でした。

直接的な行動は出生抑制です。先に述べたように、元禄期の高度成長を通じて、著しく高い生活水準を経験していた人々は、その水準を維持するために、〝予防的〟に堕胎や間引きに向かっていきました。間接的な行動は大都市の出現です。江戸中期に成熟した江戸や大坂など大都市は、晩婚化や単身化を拡大させ、また衛生環境の悪化で死亡率の上昇や出生率の低下を引き起こしました。

以上のような要因が重なった結果、人口は減りはじめます。一旦減りはじめると、多少の条件緩和では容易には回復せず、なお減少傾向を辿ります。米の供給量が維持された状態で、人口が減り続ければ、需要量も落ちてきますから、供給過剰が強まるにつれて、米価は低下していきます。

米の生産限界で人口が減りはじめたにも関わらず、米価が上昇するというパラドックスの背景には、このような事情が潜んでいます。

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2011年1月 8日 (土)

米将軍・吉宗

これまで述べてきたような社会・経済環境の中で、吉宗が最も強い関心を示し、さまざまな対策を打ち出したのが、米の価格、つまり米相場でした。

人口が減れば、需要は落ちますから、米価も低迷します。石高経済の下で米価が下がれば、財政や庶民生活に直結します。それに気づいた吉宗は、俗に「米将軍」とか「八木将軍」とよばれるほど熱心に米相場に取り組みました。しかし、吉宗の経済政策が拡大する貨幣・商品経済に対応できていなかったため、米価への介入でも試行錯誤を繰り返すことになりました。Photo_2

先に述べたように、米価は1710年前後に130匁まで高騰した後、20年代に入ると40匁まで急落し、30年代半ばまでこの水準を続けています。基本的な要因はやはり米の需給関係にあり、供給よりも需要が多ければ米価が上がり、少なければ下がります。

それゆえ、17世紀の需要増加時代には、価格を抑えるために、幕府は需要減らしに努めました。米の実需を減らすために、4代将軍・家綱の治世の後半から元禄時代にかけては、ほとんど毎年のように酒造を制限する法令も出しています。

また仮需を減らすために、大坂商人の間で拡大した「空米取引」や「延米取引」などの「米の不実商」を取り締まる政策に出ました。5代将軍・綱吉の時代には、違反した商人の全財産を没収した上、本人も追放するという「闕所」処分で応じたほどです。さらに元禄15年(1702)には、酒の値段に5割ほどの金額を上乗せし、その分を「酒運上」として取り立てる方法まで税制まで実施しています。

ところが、享保期に入ると、米価が下がってきましたので、吉宗は一転して米の需要増加をめざしました。享保5年(1720)、まずは米の公定価格を設けて、強引にその水準まで引き上げようとしましたが、その効果はほとんどなく、米価は下がり続けます。そこで、米の需要増加策にも踏み込んで、享保9年(1724)、京都・大坂の町奉行を通じ、米の不実商を緩め、享保13年(1728)には延米取引も公認しました。

さらに享保15年(1730)、大坂・堂島に幕府公認の米市場を設立して延米取引を行わせ、酒造の制限も撤廃しました。また同年には、天領・私領とも生産地に米を蓄えておく「諸藩置米令」を出すとともに、江戸・大坂・京都などの消費地に米を送り込むことを制限する「廻米制限令」も実施して、供給量を調整しています。

しかし、吉宗の相次ぐ努力にも関わらず、米価は依然として低迷したままでした。なぜなら、吉宗はもう一方で、享保改鋳(1714~1736)を実施し、良貨政策を継続していたからです。この政策で貨幣の流通量が急減しており、実需の少ない商品ほどデフレ傾向が進行しました。

元文元年(1736)になって、ようやくそれに気づいた吉宗は、大岡忠相の建議を入れて、元文改鋳で悪鋳に踏み切り、貨幣の流通量を増やしました。この政策の効果は即効的には出ませんでしたが、数年後から米価は徐々に上がりはじめ、1740年代には60~70匁まで回復し、ようやく目的を達しました。

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2011年1月 7日 (金)

半鎖国制度の変質

第3は半鎖国制度の変質です。鎖国下の貿易というと、長崎で細々と続いていた中国・オランダ交易のみを思い浮かべがちですが、これは事実ではありません。16世紀後半から17世紀前半にかけて、日本はアジア最大の産銀国であり、大量の銀が各国商人の手によってアジア各地に輸出され、ヨーロッパ勢力にも高利潤な交易品として注目されていたからです。

この時代の日本貿易は、主として銀を輸出し、生糸・絹織物を輸入するという形態で行われていました。中国から日本に伸びる「銀の道」には、長崎ルートのほかに、対馬―朝鮮を経由するルート、薩摩―琉球を経由するルートがありましたが、18世紀初期まで、対馬―朝鮮ルートを通過する貿易品の量は、長崎での取引量を上回っていたほどです。

ところが、17世紀後半になると、約1世紀間の大量流出で、国内銀貨の素材不足が深刻化したため、幕府は寛文8年(1668)にオランダ船への銀輸出を禁止し、貞享2年(1685)には御定高仕法を発してオランダ・中国への貿易額も制限し、銀に代えて銅を輸出することを奨励しました。

それでも、国内で使用する貨幣素材はなお不足しましたから、急速に拡大してきた貨幣経済の障害になりました。その結果は、先に見たように、貨幣の供給不足となって、物価の上昇を招きましたから、元禄・宝永期になると、勘定奉行・荻原重秀が相次ぐ貨幣の悪鋳を行って、供給量の増加を図りました。

18世紀に入ると、6代将軍・徳川家宣の侍講・新井白石は金銀銅の輸出が国益に反することを悟り、輸出政策をさらに転換しました。この時までに、日本はすでに金の4分の1、銀の4分の3を失っていましたので、正徳5年(1715)に海舶互市新例を発して、銅の輸出も抑制し、以後は俵物(海産物)や工芸品などの輸出を促進することにしました。この政策は、銅の流出量を極力抑えながらも、貿易総量の維持、拡大をねらったものでしたが、俵物や工芸品の輸出は銀や銅ほどには伸びず、貴金属を求めるヨーロッパにとっては、魅力の乏しい国になりました。

このため、18世紀の日本は、貿易不振で輸入量が減った生糸に代わって、全国各地で良質な国産生糸の生産を開始し、あるいは貴重な薬品であった朝鮮人参もまた国産化を進めるなど、それ以上の貿易拡大を放棄して、自国内で自給自立を強める方向へ大きく転換していきます。

集約農業技術、石高経済制度、半鎖国制度のそれぞれに制約が生まれたため、人口容量は限界に達しました。そこで、当時の人口は1730年代から減少に転じたのです。

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2011年1月 6日 (木)

石高経済制度の破綻

第2は石高経済制度の破綻です。米の価値を基盤にする石高経済制度は、貨幣経済の浸透によって、大きく動揺します。米の価値、つまり米価は1600年ころの1石銀20匁から、30年代の寛永飢饉期に一時的に急上昇したものの、その後はやや落ち着いて、60年代前半には50匁ほどになりました。上昇の要因は、全国人口の増加、とりわけ都市人口の増加で需要が急増したためでした。

60年代後半からは50匁前後で安定しましたが、これは稲作農業の発展で供給量が増加したためです。ところが、90年代に入ると再び上昇しはじめ、1710年前後に130匁まで高騰したものの、20年代に入ると40匁まで急落し、30年代半ばまでこの水準を続けました。

下落の背景には、一方では生産量の増加、他方では飢饉に伴う人口減少といった需給両面からの要因が重なっていますが、それに加えて、何度か実施された貨幣改鋳もかなり影響しています。貨幣の供給量が増加すれば物価は下がり、減少すれば上がるからです。

17世紀末から18世紀初頭にかけては、貨幣の影響が急速に拡大する時期です。貨幣経済が全国に浸透してくると、それまで自給経済に閉じ込められていた農村部でも、各地の特産物を中心に商品生産が開始され、富裕な農民層が出現してきます。農村で商業生産が盛んになるにつれて、年貢収入の停滞や減少、物価の上昇が進行し、幕府や大名・旗本などの財政を悪化させたり、零細農民の一揆を招きました。また都市部、とりわけ江戸では商業経済の急拡大で物価が高騰し、町人の打毀しが起こりました。

こうして、貨幣経済は米を基準とする石高経済を次第に脅かすようになりました。米価の下落は他の商品価格に対する相対的な購買力を低下させますから、年貢米を売却し、その代金で必要な生活物資を購入している武士層の経済に、大きな打撃を与えました。

その影響は幕府財政にも波及し、収支を急速に悪化させました。貨幣による出費が年々増える一方で、財源が減少したからです。幕府の年貢率は17世紀の6公4民~5公5民から、18世紀には4公6民まで低下しました。また18世紀には鉱山からの金銀の採掘量が湧水対応や通気技術の停滞で次第に低下し、銅の採掘量も漸減していました。その結果、幕府財政は慢性的な赤字に陥っていきます。

このため、幕府は、1720年代から、従来の米価抑制策を大転換し、米価引き上げに踏み切ります。一方では強力な物価統制にも踏み切り、享保9年(1724)の物価引下げ令、同3~9年(1718~24)の株仲間結成の公認など、新たな商業統制に追い込まれていきます。

同時に幕府財政の危機的状況を脱するため、享保7年(1722)、幕府は勝手掛老中・水野忠之に命じて、財政悪化の改善に乗りだします。その内容は、①幕領地を拡大するため、新田開発を奨励する、②幕領の年貢率では、収穫量に租率をかけた「有毛検見取法」を改め、作柄の豊凶に関わらず、毎年一定の収納を確保できる「定免制」を採用する、③当面の歳入を確保するため、諸大名の参勤の江戸逗留期間を半年にする代わりに、1万石当たり米100石を幕府に上納する「上米の制」を実施する、などでした。

石高経済制度の混乱で、幕府財政の悪化や武士階級の疲弊、さらには農村や都市部での階級格差の拡大、飢饉被害の増幅、一揆や打毀しの頻発などが発生しました。

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2011年1月 5日 (水)

集約農業技術の限界

以上で述べた3つの柱、つまり集約農業技術、石高経済制度、半鎖国制度を基盤にして、集約農業文明の人口容量は形成されました。このため、農業後波の人口は、1300年ころから緩やかに増えはじめ、1600年ころから急上昇に転じ、江戸中期の1730年前後に約3230万人でピークを迎え、以後は停滞して、1790年前後には3000万人を割るところまで落ちていきます。停滞の背景としては、3つの原因が考えられます。

第1は農業生産の飽和化です。実収石高は1700年の3063万石から1730年の3274万石へ211万石増えたものの、17世紀の年間伸び率0・32~0・56%に比べると、0・22%へ低下しています。また耕地面積も1700年の284万町から1730年の297万町へ13万町増加したものの、17世紀の年間伸び率0・26~0・38%に比べると0・15%へほぼ半減しました(速水・前掲論文)。

先に述べたように、江戸時代約270年間のうち、140年後の幕末を100とすると、この時期までに耕地面積は92%、生産石高は70%にも達しています。それは、当時の開墾技術や農業技術がほぼ限界に達したからでした。耕地の拡大と労働集約的・土地節約的進歩で急速に発展してきた集約農業は「17世紀末から18世紀初めのころになると、天井に到達するようになっていた」と速水融も述べています(前掲論文)。

さらに農業生産に著しい制約を加えたのが気象の悪化です。18世紀後半は著しい寒冷期となり、大飢饉が連続して発生しました。1755年の宝暦の飢饉、74年の安永の飢饉、82~87年の天明の飢饉などは、いずれも夏季の気温低下による冷害でした。

当時の集約農業技術は、粗放農業技術に比べてかなり高度化しており、通常の気候不順には十分に耐えられる水準にありました。だが、もともと亜熱帯性の植物である稲を全国、とりわけ東北地方にまで普及させていましたから、気候のよい時はともかくも、大規模な気候不順が発生すると、その被害は甚大なものになったのです。ここにも集約農業の限界がありました。

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2011年1月 4日 (火)

半鎖国制度

3番めの半鎖国制度とは、日本列島を治める政権が、国外との交流にさまざまな制約を設けたうえで、国内で可能な限りでの人口容量を形成する制度です。

一般に鎖国といえば、江戸幕府が海外との交流に制限を加えて、国家を封鎖した状態をいいます。寛永10年(1633)、3代将軍・徳川家光は「寛永鎖国令」を発令して、日本人の海外往来禁止、キリシタンと宣教師の取締り、外国船貿易の制限を命じましたが、37~38年の島原の乱でさらに強化し、ポルトガル船の来航停止やヨーロッパ人妻子ら血縁関係者の国外追放なども加えて、鎖国体制を完成させました。

鎖国政策の要点は、①キリスト教の禁止、②外国人の入国制限、③日本人の海外往来の禁止、④貿易の統制・管理にしぼられますが、徳川政権がこの政策に至った背景には、次のような要因があります。

第1は海外からの圧力や混乱をできるだけ排除することでした。キリスト教の旧教国と新教国の対立、日本貿易をめぐる角逐、布教の裏にある侵略的意図といった外的圧力から、日本を極力離すことをめざしていました。第2は統一国家をめざすうえで、異国的な宗教を信仰する大名・家臣・領民の存在は障害になりますから、これを排除して統制を強化する必要に迫られたのです。そして第3は、政治や外交から経済や文化までを、一元的に掌握する国家権力の成立を誇示することでした。

とすれば、徳川政権の鎖国政策には、西欧諸国の競合関係や清国の海禁政策、あるいは当時の航海技術や日本の地理的位置など、当時の国際政治状況を総合的に読み込んだ上で、思想的にも経済的にも、国家の独立的存立を達成するという目標があったものと思われます。その具体的な対応は、次のようなものでした。

1つは、鎖国といいながらも、「4口」、つまり長崎口、対馬口、薩摩口、松前口の、4つの対外窓口を開いて、最小限必要な海外取引については、なお継続していました。長崎口では幕府の直接管理のもと中国とオランダに対して貿易が行われ、対馬口では対馬藩が対朝鮮の外交、貿易の中継ぎ役を担っていました。また薩摩口では、薩摩藩が琉球を通じてのアジア貿易を行い、松前口では松前藩がアイヌ人を通じて北方貿易を行っています。こうした制度によって、国内では調達できない物資や情報などを、海外から輸入する態勢を形成していたのです。

2つめに、国内で自給できる食糧や物資については、列島の隅々にまで到達できる交通・流通制度を確立しました。江戸や大坂をはじめ、各藩の城下町などが流通拠点としての都市として形成され、陸上交通網や海上・河川交通網もが整備されました。

陸上交通では、江戸・日本橋を起点に、東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5街道が整備され、1里ごとに1里塚、一定間隔ごとに宿場が設けられ、さらに継馬、伝馬、飛脚なども用意されました。また海上交通では、西廻り航路、東廻り航路、菱垣回船、樽回船などが整備されました。西廻り航路は、北前船で北陸以北の日本海沿岸から関門海峡、瀬戸内海を経て、大坂へ向かう航路、東廻り航路は北陸や東北の日本海側から津軽海峡、三陸沿岸を経て、太平洋を回航し、江戸に至る航路です。菱垣廻船や樽廻船は、大坂などの上方と江戸の消費地を結ぶ貨物船でした。

こうした陸・海両ルートの整備によって、各地で生産された米や特産物は、江戸や大坂へ運搬されるとともに、両所を経由して全国へ流通しました。これによって、飢饉時には大量の米を各地に分配できる態勢が整い、国内だけで最大限の人口容量をめざすことが可能になったのです。

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2011年1月 3日 (月)

石高経済制度

2番めの石高経済制度は、米の計量単位である「石」を、社会的、経済的、政治的な価値の基準にする制度です。石の大小によって、水田や地域の生産量から支配階級の経済的・軍事的地位までを、統一的に計測する制度として、戦国時代後半から江戸時代にかけて定着しました。

それ以前の鎌倉・室町時代には、一定の水田で収穫される平均的な米の生産量を、当時の通貨単位「貫」に換算する貫高制が普及しており、戦国大名の領国支配まで続いていました。ところが、天下統一を果たした豊臣政権は、1591~92年に御前帳と人掃令を発して、全国一斉に家数・人数の調査を行い、自らの政治基盤とすべき石高・家数人数を把握するとともに、百姓から年貢・夫役を徴収する方式を確立しました。いわゆる「太閤検地」ですが、この時用いられた石高は、米の生産量を基準として農耕地を評価する制度でした。

その後、石高は米以外の農作物や海産物の生産量、田畑や屋敷などの評価高、大名や旗本の所領からの収入や俸禄などにも拡大され、「石高知行制」にまで発展します。石高知行制というのは、将軍から大名へ、大名から家臣へと、石高を与えるものですが、経済的には年貢の収集基準となり、政治的には軍役の賦課基準となりましたから、経済・政治の両面に影響を与えました。

経済面でいえば、最大多数の生産者である農民たちが、生産物の一部を支配者に年貢で収める際、その納入比率は2公1民や5公5民といった呼称でよばれ、石高に対する一定の割合として定められました。また石高制の下では,米が基本通貨としての役割を担いますから、米価の高騰や下落は庶民生活から領主財政にまで大きな影響を与えます。だが、当時の支配階級には、米の生産調整や売買による需給調整を行う能力が欠けていましたから、凶作時には酒造制限令や禁止令を出し、豊作時には緩和するなど、主食向け以外での調整を頻繁に行うだけでした。

他方、政治的にいえば、1石は大人1人が1年に食べる米の量に相当しますから、これを配下の武士に与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵力を養えることになります。そこで、石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味するようになり、これが江戸幕府にも継承されて、その軍役令においても、各大名は表高1万石あたり約200人の軍勢を動員する義務を課せられました。

  こうして、石高制という価値基準は、全国的に通用する、普遍的な原理になりました。つまり、米の生産量が社会的価値の基準となったのです。

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2011年1月 2日 (日)

集約農業技術

享保の改革がはじまった背景には、徳川幕府の開幕以来、一貫して伸び続けてきた人口が、一転して減りはじめ、それに伴って社会や経済も、従来の成長・拡大型から飽和・濃縮型へ移行しなければならないという事情がありました。繰り返しますが、人口減少がはじまったのは、当時の社会を支えた人口容量が満杯になったからです。この人口容量は集約農業文明が形成したものでしたが、それは集約農業技術、石高経済制度、半鎖国制度の3つの柱によって支えられていました。

集約農業技術というのは、従来の粗放農業技術をさらに緻密にした農業技術です。紀元前500年ころ大陸から伝わってきた粗放農業技術は、初歩的な水田水稲技術を中心に金属器技術や土木技術を含む、いわゆる「弥生文化」ですが、これらの技術の改良によって平安・鎌倉時代の人口容量は約700万人に達していました。この粗放農業技術をさらに改良し、もう一段高いレベルに押し上げたのが集約農業技術です。

その形成過程を、歴史学者の永原慶二は「水田の耕作条件の安定と大幅な増加」という2つの事実に分けて説明しています。耕作条件の安定化とは、①平安末期にはじまった水田2毛作が水田の乾田化の進行とともに拡大した、②室町期には草木の刈敷(かりしき)、厩肥(きゅうひ)、堆肥(たいひ)、草木灰に加え人糞尿の肥料化が進んだ、③平安時代にはじまった稲の品種の多様化がさらに進行し、多収穫かつ低湿田に適したインド種赤米(あかごめ)=大唐米(たいとうこめ))の栽培が盛んになった、④平安時代にはじまる畠の2毛作の比重が高まった、などをさしています(『室町・戦国の社会』)。これに加えて、⑤牛馬耕作の開始や⑥鳥獣駆除の進展といった農業技術の改良も、耕作条件を改善しています。

また水田の大幅な増加は、①新田の開墾の拡大や②水利・堤防技術の向上によるものです。室町時代には、守護層はもとより名主上層、在地の荘官、地頭までが既存水田を私有しはじめ、同時にそれぞれの下人層や傍系血族を使って新開地を開発し、自らの所有とします。さらにこの時期には運河網の発達、揚水車の普及、番水(ばんすい)の整備なども進みます。こうした傾向が、利用可能な水田の面積を次第に増加させました(同上)。

室町時代後期になると、有力守護たちの中から現れた守護大名が領国の土地と人民を支配する「領地領民」制を確立します(古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)。戦国時代に入って、彼らの多くは「戦国大名」に席捲されましたが、領地領民制はその後も続き、織豊時代を経て徳川幕藩体制に至るまで、基本的な統治構造となりました。

このため、守護大名や戦国大名は、各々の支配地の土地生産性に関心を高め、水利や開墾から施肥や農具改良に至るまで、幾つかの改革や改良を促しましたから、農業技術は飛躍的に進展しました。とりわけ戦国大名は、築城・道路建設・鉱山採掘など、軍事的な目的で向上させた土木技術を、水利、灌漑、開墾などにも積極的に応用し、経済的基盤の拡充をめざしました。

水利でいえば、大河川の上流から取水して、長大な用水路で台地や扇状地まで引水したり、小さな溜池を水路でつないで溜池群を造成したり、長大かつ堅固な連続堤を築くことなどで、水田の拡大と水田経営の安定を図りました。信玄堤に代表される甲州・武田氏の釜無川や笛吹川開発、越後・上杉氏の信濃川開発、安芸・毛利氏の太田川開発などが代表例です。

関が原の合戦の後、世の中が平和になると、これらの優れた農業関連技術が全国に普及し、それにつれて、農業生産は急速に拡大しました全国の耕地面積も、1600年頃の約200万町歩から、100年後の1700年前後には約300万町歩にまで増加しています(速水融ほか「概説 17―18世紀」)。

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2011年1月 1日 (土)

享保の改革

閉塞感の広がる享保社会をなんとか立て直そうとしたのが、8代将軍・徳川吉宗です。彼が将軍に就任する20~30年ほど前から、全国各地で特産物を主軸にした商品生産が発達し、石高経済の中に貨幣経済が浸透しはじめていましたから、貨幣価値の混乱で物価が高騰し、諸藩はもとより幕府の財政も悪化していました。

そこで、享保元年(1716)、将軍に就任した吉宗は直ちに、前代からの側用人政治を排して、老中・譜代が中心の正統政治に戻し、そのうえで、後に「享保の改革」とよばれる大改革に乗り出します。およそ30年に及ぶ改革は3つの時期に分かれます。

第1期(享保元年~7年前半=1716~1722)は、将軍就任直後であったため、「援立の臣(任官を支援した関係者)」への遠慮から、従来の政策を継承しつつ、諸改革を準備した時期です。行政的には御庭番の創置、大岡忠相の町奉行登用、評定所の機構改革、目安箱の設置、全国人口調査の実施、小石川養生所の設置、江戸町火消しの設置、流地禁止令などを実施し、文政的にはキリスト教に無関係の洋書輸入を解禁しました。また経済・財政的には、前代の正徳金銀を継承して、通貨量を縮める享保金銀の発行、旗本・御家人と札差間の金銭貸借訴訟を認めない相対済令など、緊縮政策や金融規制策を行いました。

第2期(享保7年後半~20年==1722~35)は、勝手掛老中に水野忠之を抜擢して、財政を中心に諸改革を本格化させた時期です。行政的には、人材登用を容易にする足高制の導入、小石川養生所設置などを実施し、経済・財政的には、諸大名に領地1万石につき100石の米を差し出させる上米の制、検見法の改革、定免法導入、「五公五民制」への転換、新田開発奨励の高札表示、江戸町方公役銀納令、口米永代蔵令、諸大名や大坂商人への買米令発令などを発しました。こうした積極策によって、幕領からの年貢は増徴され、幕府財政はかなり改善されました。

ところが、これらの諸政策は緊縮を強めるものでしたから、不況が広がり、米価の下落を招きました。享保15年(1730)6月、米価政策の失敗で水野忠之が罷免されると、全国各地で年貢減免を求める一揆が発生し、さらに享保17年(1732)、瀬戸内海沿岸を中心に蝗害による「享保の飢饉」が発生すると、江戸でも「打毀し」が勃発しました。

このため、第3期(元文元年~延享2年=1736~45)になると、前期の失政を反省して、悪鋳で通貨量を増やす貨幣政策へ転換し、勝手掛老中に松平乗邑、勘定奉行に神尾春央を任命して、再び財政改革に取り組んでいきます。行政的には公事方御定書や御触書寛保集成の編纂、天文台の設置など、経済・財政的には田方勝手作仕法を公布し、元文元年(1736)には元文金銀を新鋳しました。これらの政策で、幕府財政はその後しばらく安定した状態となりましたが、延享2(1745)9月、吉宗の退隠に伴って、乗邑も罷免されました。

ともあれ、以上のような改革の強力な推進によって、幕府財政はようやく立ち直り、1722~1731年の10年間に米で約3万5000石、金で約12万8000両、1732~1741年の10年間に米で約4万8000石、金で約35万4000両、1742~1751年の10年間に米で約7万5000石、金で約96万両という黒字を計上しました(大石慎3郎『吉宗と享保の改革』)。これらの成果をあげたことで、吉宗の改革は、寛政・天保の改革とともに、江戸幕府の3大改革と称されています。

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