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2011年1月 3日 (月)

石高経済制度

2番めの石高経済制度は、米の計量単位である「石」を、社会的、経済的、政治的な価値の基準にする制度です。石の大小によって、水田や地域の生産量から支配階級の経済的・軍事的地位までを、統一的に計測する制度として、戦国時代後半から江戸時代にかけて定着しました。

それ以前の鎌倉・室町時代には、一定の水田で収穫される平均的な米の生産量を、当時の通貨単位「貫」に換算する貫高制が普及しており、戦国大名の領国支配まで続いていました。ところが、天下統一を果たした豊臣政権は、1591~92年に御前帳と人掃令を発して、全国一斉に家数・人数の調査を行い、自らの政治基盤とすべき石高・家数人数を把握するとともに、百姓から年貢・夫役を徴収する方式を確立しました。いわゆる「太閤検地」ですが、この時用いられた石高は、米の生産量を基準として農耕地を評価する制度でした。

その後、石高は米以外の農作物や海産物の生産量、田畑や屋敷などの評価高、大名や旗本の所領からの収入や俸禄などにも拡大され、「石高知行制」にまで発展します。石高知行制というのは、将軍から大名へ、大名から家臣へと、石高を与えるものですが、経済的には年貢の収集基準となり、政治的には軍役の賦課基準となりましたから、経済・政治の両面に影響を与えました。

経済面でいえば、最大多数の生産者である農民たちが、生産物の一部を支配者に年貢で収める際、その納入比率は2公1民や5公5民といった呼称でよばれ、石高に対する一定の割合として定められました。また石高制の下では,米が基本通貨としての役割を担いますから、米価の高騰や下落は庶民生活から領主財政にまで大きな影響を与えます。だが、当時の支配階級には、米の生産調整や売買による需給調整を行う能力が欠けていましたから、凶作時には酒造制限令や禁止令を出し、豊作時には緩和するなど、主食向け以外での調整を頻繁に行うだけでした。

他方、政治的にいえば、1石は大人1人が1年に食べる米の量に相当しますから、これを配下の武士に与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵力を養えることになります。そこで、石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味するようになり、これが江戸幕府にも継承されて、その軍役令においても、各大名は表高1万石あたり約200人の軍勢を動員する義務を課せられました。

  こうして、石高制という価値基準は、全国的に通用する、普遍的な原理になりました。つまり、米の生産量が社会的価値の基準となったのです。

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