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2011年2月

2011年2月28日 (月)

第7政策=貿易を見直す

第7は貿易政策の見直でした。

 当時の国際貿易の課題は、貴金属の輸出を抑えて、俵物(漁業加工物)の比重を増やすことでした。

江戸時代前期の貿易では、日本産の金銀、とりわけ銀の輸出が中心であり、唐船やオランダ船による巨額の銀流出が続きました。17世紀の中葉になると、金銀とも産出量が減少したため、幕府は銅の輸出を増加させました。

 だが、正徳5年(1715)1月、幕府は新井白石の立案した「海舶互市新例」で、銅についても輸出を抑制し、代わって再生育可能な漁業加工物(俵物)の輸出促進に転換しました。この政策は享保~寛延期にも引き継がれていました。

明和~明和期になると、田沼政権は、先に述べたように、新たな貨幣の素材として銀が必要でしたが、国内の生産量だけでは無理でしたから、宝暦13年(1763)に中国から、明和2年(1765)にはオランダから、それぞれ銀を輸入しています。

これには当然、対価となる輸出商品が必要でしたから、田沼政権もまた海産物の輸出増加をはかりました。銅の流出を極力抑えながらも、貿易総額を維持するには、海産物の輸出が唯一の手段でした。白石の唱えた「鉱産資源保護政策」は、田沼によって「重商主義的貴金属輸入政策」へと、微妙に転換されています。

そこで、田沼政権は、俵物の生産・輸出を積極的に奨励しました。当初は個々の商人から別々に購入していた俵物を、延享元年(1744)からは請負商人を指定して独占的に買い集める方式へ切り替え、さらに天明5年(1785)には、長崎会所自らが産地に赴く「直買方式」へ移行しました。

 元禄11年(1698)に設立された長崎会所は、中国、オランダ貿易を独占し、利益の一部を幕府へ運上金として納める組織ですが、この方式の採用で、俵物についても、数量の確保、価格の安定、輸送体制の整備など、効率よい集荷が進められるようになりました。

直買方式」では、大坂・箱館・長崎に俵物役所を、また下関・江戸に指定問屋をそれぞれ設置したうえ、全国に世話人や買い集め人をおき、会所の役人が浦々をまわって即金で買い上げるしくみを作り上げました。

 漁業者に対しても、上納責任高(請負高)を予め決めたうえで生産資金を前貸したり、良好な生産者や漁村に対する褒章金制度や技術的な指導対策などを次々に打ち出して、生産量の拡大に努めました。

それでも、長崎会所の経営はかなり困難だったようです。輸入した外国金銀を幕府へほぼ原価に近い価格で上納していましたから、利潤はほとんど出ないうえ、銅や俵物は、国内の生産コストからみて異常なほど安い価格で、外国商人へ売り渡されていましたから、損失が出こともしばしばありました。これらの損失は、会所が輸入品の国内販売であげた利益やその他の関連機関からの支援で補填するという有様でした。

銀の輸入は銀貨鋳造のため、また主要輸出品の低価格は輸入量の維持のため、というように、それぞれが幕府の意図に基づくものでしたから、長崎会所という組織は貿易企業というよりも、公儀御用を勤める幕府の一機関であったといえるでしょう。

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2011年2月25日 (金)

第6政策=新しい産業を振興する

第6は農業生産を補完する、新たな産業の振興でした。

 田沼時代は、石高経済が限界化し、商品経済が拡大する中で、幕府の財源となるような、新たな産業の振興が求められていました。こうした要請に応えて、意次がまず取り組んだのは、鉱山の開発でした。

田沼時代には、第4政策で述べたように、明和2年の五匁銀や明和9年の南鐐二朱銀を鋳造する素材として、銀が不足していました。そこで、田沼政権は、宝暦13年(1763)には中国からの銀3000貫を輸入し、明和2年(1765)にはオランダから初めてヨーロッパの金銀銭も輸入しました。

その見返りには銅の輸出が必要でしたから、幕府は国内銅山の開発に取り組み、宝暦13年(1763)3月、未採掘や休止中の銅山を調査して再操業するように各藩に命じました。

 翌明和元年(1764)5月には、秋田藩の阿仁銅山の上地令を出しました。だが、これは同藩の運動と意次の働きかけで撤回されています。それでも、銅が不足しましたから、銅で作られていた銭を鉄や真鍮に変えるため、明和2年(1765)ころから、先に述べたように鉄銭や真鍮銭の鋳造も開始しています。

続いて幕府は鉱物資源の流通統制にも取り組み、明和3年(1766)に大坂に銅座を設立して、諸国で採掘された銅を一手に集荷させたうえ、独占的に販売して、銅の増産を奨励しました。

 安永元年(1772)には、銅・鉄・真鍮・石灰・明礬の会所を各地に設置して幕府の専売とし、安永9年(1780)には、大坂に鉄座・真鍮座を新設するとともに、銀座・真鍮座は江戸・京の銀座が取扱うことにしました。明和4年(1767)には、金・銀・銅・鉄・亜鉛鉱山の新規開発や既存鉱山の再開発を促し、天明6年(1786)には、大和金剛山の金・鉄採掘を命じました。

もう一つ、意次が積極的に取り組んだのは、急速に発展してきた蘭学を応用して、輸入品を国産化することでした。

 宝暦11年(1761)、意次は博物学者の平賀源内を起用して、下剤・利尿剤として用いる芒硝(硫酸ナトリウム)調査のため、伊豆半島へ派遣しました。明和7年(1770)には2度めの長崎行きを斡旋し、その帰途、摂津多田銀・銅山や大和吉野の金峰山の調査や試掘を行なわせています。

源内は安永2年(1773)、秩父中津川鉄山の開発に関わり、秋田藩に招かれて院内銀山や阿仁銅山の指導にも当りました。多彩な才能を持つ彼は、明和元年(1764)2月に火浣布(石綿)を創製し、安永5年(1776)11月には、日本で初めてエレキテルを完成させています。

宝暦13年(1763)には、本草学者で町医者の田村藍水を幕府の医官に登用して、朝鮮種人参御用を命じ、江戸飯田町に人参製法所を新設して、国産人参の栽培や製薬に当たらせました。

 また同年、神田紺屋町に人参座を設けて、人参製法所製の人参販売を独占させ、関東、東海、大坂で34軒の薬種商を下売人に指定しました。

 明和元年(1764)5月には、奥医師を集めて、意次自ら朝鮮人参の国産化を喧伝し、安永7年(1778)閏7月には、武蔵国他42カ国の希望者に、朝鮮人参の種を頒布しています。

一方、藍水は、幕府の許可を得て、明和3年(1766)、オランダ人より譲り受けた草綿実の種を元に、異国風に染めあげた更紗(斑布)を製造し、明和4年(1767)には葉は食用、種からは油のとれる闍婆菜(ジャガタラナ)を栽培して将軍に献上しました。

 明和8年(1771)になると、藍水はオランダから薬草と野菜の種を輸入し、安永2年(1773)には綿羊の飼育も許可されています。いずれも意次の支援を受けて、新たな産業開発に取り組んだものでした。

また意次は明和3年(1766)、武蔵大師河原村の名主・池上幸豊を上屋敷に招いて、砂糖製造の実演を行なわせ、明和5年(1768)には関八州その他へ、甘蔗栽培の製法を伝授する巡回を許しています。

 明和6年(1769)になると、
甘蔗砂糖の植え付け場所を池上へ下げ渡し、天明6年(1786)には製法伝授のため、京・大坂・畿内の農村を巡回させました。こうした努力によって、天明期には各地で甘蔗が栽培されるようになりました。

以上のように、意次は鉱山開発、朝鮮人参、白砂糖、輸入品の国産化などを積極的に推進し、殖産興業に努めています。

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2011年2月23日 (水)

第5政策=農地・国土を拡大する

第5は農地・国土の開発・拡大による農業生産の再興でした。

 戦国時代から一貫して拡大を続けてきた農地開発は、元禄期前後になると、開発適地の限界化で停滞するようになり、代わって農業政策の中心は土地生産性の最大化をめざす精農主義へと移行していました。

 ところが、徳川吉宗は年貢増徴をめざして、改めて新田開発に取り組み、享保7年(1722)7月、「新田開発に関する高札」を江戸日本橋に掲げて、資本力のある商人層の投資を求めました。この政策によって新たに開発された新田は、20年ほどの間に3万3000町歩、石高で97万石に達しています。

田沼政権もまた吉宗の新田投資策を継承し、明和元年(1764)12月、江戸町人の希望者に下野・下総・常陸の荒地を下付して新田開発を奨励し、安永元年(1772)には、町民からの開発願を地元民より優先するように改正しました。さらにこの政策を本格化させ、下総国印旛沼・手賀沼の開拓や蝦夷地の開発事業にも取り組んでいきます。

印旛沼・手賀沼の開拓については、寛文3年(1663年)や享保9年(1724年)に、2度ほど試みられていましたが、難工事や資金難で中断されていました。

 田沼政権もまたこの開拓に挑戦し、新たな水路を掘削して、印旛沼の水を東京湾に流し、沼周辺に新田を拓くとともに、運河による輸送路を開通させたいと考えました。

安永9年(1780)、幕府代官・宮村孫左衛門は、地元の名主2人に指示し、「印旛沼新堀割御普請諸目論見帳」を作成させましたが、総費用は6万660両に達しました。宮村はこの計画を見直して、費用を3万6640両にしぼったうえ、完成時の新田3900町歩の8割を出資者に、2割を地元世話人に与えるという条件で、大阪と江戸の2人の商人から出資を取り付けました。

天明2年(1782)7月に勘定奉行所で実施を決定し、諸準備のうえ、天明4年(1784)に測量をはじめ、同5年(1785)に工事に着工、同6年(1786)の初夏までに6割ほど進みました。

 ところが、7月、利根川が大氾濫して印旛沼に流れ込み、工事は壊滅的な打撃を受けました。3年前の浅間山大噴火による大量の降灰で、利根川の川底が浅くなっていたからです。それでも、幕府は工事を続行しようとしましたが、同年8月、田沼の失脚によって中止されました(以上、大石慎三郎『田沼意次の時代』)。

次に田沼が取り組んだのは、蝦夷地(北海道)の開発事業です。この事業は当初、ロシアとの貿易振興を目的にしていましたが、最終的には新田開発に重点が移されています。

天明3年(1783年)正月、仙台藩医・工藤平助は、意次の用人・三浦庄司に依頼されて『赤蝦夷風説考』を書き上げ、赤蝦夷、つまりロシアの南下策を警告しつつ、開港交易と蝦夷地の開発を献策しました。

 これを読んだ意次は、その具体化を勘定奉行・松本秀持に命じましたが、折からの凶作で飢饉が広がり、各地で打ち壊しや一揆が続発し、7月の浅間山大噴火で政情不安が高まっていましたから、準備はかなり遅れました。

天明4年(1784年)5月になって、松本はようやく「赤蝦夷の儀につき申し上げ候書付」という蝦夷地開発の方針案を意次に提出しました。その案では、蝦夷地の金銀銅を採掘し、それをもとにロシアとの貿易を拡大して、利益を獲得するという、鉱山開発と貿易拡大に重点がおかれていました。

 田沼の承認を受けて、松本は普請役や下役などの調査団の構成と調査の範囲、利用する船の調達や請負業者などについて計画を進めました。廻船方御用達の商人に3000両の拝借金を与えて、アイヌとの交易を請け負わせ、その収益により幕府の調査費用を軽減するという方策も生み出しました。

天明5年(1785)4月、佐藤玄六郎青島俊蔵ら5人の普請役に最上徳内らを加えた、第1次蝦夷地調査隊は、松前を出発し、東蝦夷地からクナシリ島に行く団員と、西蝦夷地からカラフトに行く団員の二手に分かれて調査をはじめました。

 翌年2月、佐藤玄六郎は、第1回の調査報告「蝦夷地の儀是迄見分仕り候趣申し上げ候番付」を松本に提出しました。それを読んだ松本は、鉱山開発と貿易拡大が困難なことを知り、2月6日に新田開発を中心とした、新しい蝦夷地開発案を提案しました。

新案によると、蝦夷地本島の面積の10分の1、116万64OO町歩(約116万6千ヘクタール)を新田化できると推定し、この土地の収穫高を内地の半分(1町歩につき5石)と仮定すれば、石高は583万2000石と見積もりました。当時の全国の石高、約3000石が一挙に2割も増加し、さらに収穫量が内地並みになれば、4割も増えという、壮大な目論見でした。

 この計画を実現するには、約1O万人の人手が必要となるため、アイヌ人の活用に加えて、穢多頭弾左衛門配下の穢多・非人7万人を移住させることまで計画していました(以上、藤田覚『田沼意次』)。

こうして、蝦夷地開発事業では、新田開発策や農業開発策が浮上しました。同年夏の印旛沼開拓中止で新たな農地開発を求めていた田沼は、計画の実現に向けて諸準備をはじめましたが、天明6年(1786年)8月の失脚で、これまた中止されました。

しかし、田沼の採用した蝦夷地開発構想は、北海道を日本の富源にするという発想を、初めて具体化したものでした。これほど大胆な政策が一気に進んだのは、本土での新田開発が限界に達した以上、新たな土地に進出すべきだ、という考え方が幕府の中枢部に広がっていたからです。

 藤田覚も「この考え方は、勘定奉行所を中心にして老中を含む幕府のかなりの部分にまで支持されて浸透し、田沼時代の次の寛政の改革では、意次の政策の多くが否定されてしまうものの、幕府内部の底流で生き続けた」と述べています。

これを裏付けるように、田沼の蝦夷地政策は、寛政11年(1799)の東蝦夷地の幕府直轄化、開発政策の断行、文化4年(1807)のカラフト、エトロフ、クナシリ鳥を含む全蝦夷地の幕府直轄化となって実現し、その後も紆余曲折を経て、文政4年(1822)に中止されるまで、脈々と続いていきます。

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2011年2月22日 (火)

第4政策=3貨制度を見直す

第4は通貨の見直しをしたことです。

 当時の通貨制度は、江戸時代前期に作られた金・銀・銭の3貨制でしたが、元禄・享保を経たころから、米を中心とする石高経済から銭による商品経済への移行が急進し、全国的な統一貨幣への要求が高まっていました。

3貨制では、は両・分・朱の4進法による鋳造定量計数貨幣は銀塊の重量を貫匁で計る秤量貨幣(銅や鉄)は貫・文という十進法の鋳造定量計数貨幣で、それぞれ独立して用いられていました。

 このうち、金と銀高額貨幣として使われ、金は江戸を中心とする関東・東日本・中部地方を、銀は京・大坂を中心とする畿内・中国・四国・九州・裏日本地方を、それぞれ主な通用区域にしていました。

 小額貨幣として全国共通で使用されていました。この地域差が、経済が全国化するとともに不便になってきたのです。

そこで、田沼政権は「明和五匁銀」と「南鐐二朱銀」を発行し、統一貨幣をめざしました。

 明和2年(1765)9月に発行された「明和五匁銀」は、徳川時代最初の定量計数銀貨(単位価値を明記した銀の鋳造貨幣)であり、通貨銀を通貨金に直接連動させました。

 量目は5匁(18・75グラム)、品位は元文銀と同じ1000分の460、表面に「文字銀五匁」、裏面には「常是」の文字、側面には小花形印を打刻した鋳物製の銀貸でした。文字銀五匁というのは、幕府が定めた金銀の公定相場「金1両に銀60匁」に従って、この銀貨12枚で金1両と交換できることを示していました。

しかし、多くの人々は150年余りなじんできた、従来の通貨体制に愛着を持っていました。また通貨の交換に携わる両替商にとっては、金と銀が異なる通貨から連動する通貨に変わることは生死にも関わる問題でしたから、5匁銀12枚=1両という指示には従わず、丁銀や豆板銀と同様に独自に相場を立てました。

 このため、明和五匁銀の流通量は伸び悩み、安永元年(1772)までの8年間に、1800貫目を鋳造しただけで終わりました。

それでも、幕府はこの失敗にもめげず、7年後の安永元年(1772)9月、「南鐐二朱銀」を発行します。

 「明和五匁銀」と同じ定量計数銀貨幣で、表面に「以南鐐八片換小判一両」の文字を、裏面には「銀座常是」の文字を刻みました。

 表面の文字は、南鐐二朱判8片で金1両に交換できることを意味し、銀貨ではあるものの、金貨の二朱金と同一通貨であることを示しています。「南鐐」というのは良質という意味で、当時広く流通していた元文銀の品位1000分の460に対し、1000分の978という、ほぼ純銀に近いものでした。

金銀の交換比率が指定されていたため、「南鐐二朱銀」もまた猛烈な抵抗を受け、両替商たちは南鐐100両に対し金125両の相場を立てました。幕府は表示どおりの通用を命じましたが、両替商は従わず、田沼意次の失脚によってその鋳造は停止されました。

一方、銭貨については、流通量の増加に伴って増鋳が課題でした。商品経済の拡大で銭の需要が急増するにつれて不足気味となり、その相場も金1両に銭四貫文という幕府希望公定相場にたいし、銭高が目立つようになっていました。

このため、幕府は明和2年(1765)ころから、江戸の亀戸、武蔵の川口、京都の伏見、肥前の長崎など全国各地で鋳銭を続け、また川井次郎兵衛の進言を容れて、明和5年には1文で並銭4文に通用する「真鍮四文銭」も鋳造しました。

ところが、明和5年(1768〉から銭相場が下落をはじめ、同6年には金1両に銭5貫文の大台を割りこみ、以降しばらくはその線で安定していましたが、安永7年(1778〉に6貫文台を切り、天明元年(1781)には高安ともに6貫文前後で安定しました。供給量の増加と素材を銅から鉄や真鍮に変えたことが下落の要因でした。

安永3年(1774)、田沼意次は老中と側用人を兼ねますが、この年、幕府は銭相場下落による庶民の難儀を救うため、幕府が行なっていた鋳銭を中止するとともに、真鍮銭の鋳造量を半減するなど、銭相場を立て直す政策を打ち出します。だが、いずれも成功せず、銭の異常安のもと庶民の怨嗟の声につつまれて、田沼政権は崩壊しています。

以上のように見てくると、3貨制の矛盾を克服しようとした、田沼政権の通貨政策は、必ずしも成功したとはいえません。

 しかし、中止されたとはいえ、「二朱銀」は時代の要求に適った通貨でしたから、次の老中・松平定信が解任された後の寛政12年(1800)に復活し、再び鋳造がはじまっています。

 長期的な視点に立てば、「明和五匁銀」や「南鐐二朱銀」は、江戸時代の封建的通貨体制から、明治政府の近代的通貨体制「新貨条例」(明治4年=1871)への接点と位置づけることができます。

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2011年2月21日 (月)

第3政策=物価を引き下げる

第3は諸物価の引き下げ策でした。

 「米価安の諸色高」が続く以上、支出を抑えるためには、諸物価の引下げや安定化も緊急の課題でした。そこで、田沼政権が採用した基本政策は、一方で株・座・会所などによる商工業団体への価格統制を強化し、他方では幕府の介入で諸色価格の安定を図ることでした。

 とりわけ、都市の拡大と人々の暮らしの変化によって需要が増えた燈油と、国民的な衣料となった木綿については、その価格を安定させるために、株仲間を通じた流通統制を実施していきました。

燈油については、先に述べたように、宝暦10年(1760)に大坂の菜種問屋の株を定め、明和7年(1770)に、大坂の油問屋株を許可し、月を定めて取引を行う売買(油限月売買)を行なわせました。

 さらに同年、摂津・河内・和泉の在方に油稼株を設け、自ら栽培した菜種を油に絞ること以外の油絞業を禁止し、菜種の出荷を大坂の油問屋に集中させています。また明和6年(1769)10月には、菜種の特産地で水力による絞油業が発達していた、尼崎藩領の兵庫・西宮1万4千石を上地し、燈油価格の流通統制を強めました。

木綿については、宝暦10年(1760)に大坂の綿実問屋の株を定め、繰綿延売買会所を設けました。安永元年(1772)に大坂の綿屋仲間を公認し、さらに綿買次積問屋の株を定め、安永3年(1774)には摂津平野郷に大阪繰綿延売買相場会所の「平野郷出店」を認めています。いずれも、大坂に菜種と木綿を集中させる流通ルートを作り、それを扱う問屋に株仲間の結成を認め、流通を統制しようとしたのです。

また運送についても、安永元年(1772)に樽廻船問屋の仲間株を、翌2年(1773)菱垣廻船問屋の仲間株を許可し、大坂・江戸間の海上輸送の統制も図りました。

貿易関連商品については、宝暦8年(1758)明礬会所を江戸・大坂に新規の京・堺を加え、宝暦13年(1763)に江戸に朝鮮人参座、明和3年(1766)に大坂に銅座、明和5年に長崎に竜脳座、安永9年(1780)に大坂に鉄座、江戸・京・大坂に真鍮座をそれぞれ設置し、また天明5年(1780)に長崎会所へ俵物の独占集荷を認めています。

 これらの措置で、貿易や貨幣地金に必要な物資や貴金属については、流通を一本化する座と会所を設置し、幕府が独占して集荷、販売する「幕府専売制」を確立しました。

他方、諸色への過剰な需要を抑えため、幕府は明和8年(1771)4月に5カ年倹約令、天明3年(1783)12月に7カ年倹約令を出し、その後も7年、5年、あるいは3年間の期限付きで次々に延長しています。

以上のようの需給両面からの諸政策によって、田沼政権は物価の引下安定を図ろうとしました。

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2011年2月18日 (金)

第2政策=米価を引き上げる

第2は米価引き上げのための諸政策でした。

享保期以来の「米価安の諸色高」は、20年を経た宝暦期にもなお続いていました。これが続く限り、いくら年貢率を上げても、どれほど新田開発で農地を増やしても、幕府財政の実質的な収入は上がりません。大名の財政も、旗本の家計もともに悪化していきます。

 そこで、田沼政権は「米価高の諸色安」をめざしてさまざまな政策を展開しますが、米価対策では①囲籾(かこいもみ)、②米切手の統制、③買米の3つを実施しました。

最初の囲籾政策は、諸大名に命じて籾米を領内に留め置くことで、米の流通量を減らして、米価を高くしようとする政策であり、宝暦3年(1753)、同10年、同11年、安永3年(1744)の4回ほど出されています。このうち宝暦10年には、諸大名に対して領知高1万石につき籾1000俵の囲籾を命じています。

2つめの米切手統制は、空米切手を統制するものです。米切手とは、諸藩が大坂の蔵屋敷に保管している蔵米(年貢米)を売り出して、落札した米仲買人宛てに藩が発行する証書のことです。

 江戸時代も前期の間は、諸藩は年貢の収入で藩の財政を賄うことができましたが、中期に入って米価安を迎えると、それでは不足するようになりました。
そこで、諸藩は大坂の豪商から借金をしてやり繰りするようになり、蔵屋敷に米がないにもかかわらず、蔵米を売り出す米切手を発行しました。

 米の現物を売る「正米取引」に対して、「空米取引」とよばれるもので、その証書が「空米切手」です。空米取引が拡大すると、現物の米が存在しないにもかかわらず、数字上では米の在庫量や流通量が多くなりますから、必然的に米の値段は下ります。危機感を抱いた幕府は、宝暦11(1761)12月、大坂蔵屋敷の空米切手を禁止し、翌年に空米売買そのものも禁止しました。

3つめの買米政策は、同じ宝暦11年(1761)12月に行なわれたもので、大坂の豪商205人に合計170万両余りの御用金を命じ、その資金で市中から米を買い上げて流通量を減らし、米価を高くしようとしました。

 町奉行所が集めた御用金を各町に配分し、各町はその3分の2で米切手を購入し、3分の1を町人や大名に貸し付けるというものです。この金融は、空米切手を禁止する代償として、諸藩を救済する意図もありました。

実際に集められた金額は56万両弱でしたが、それでも一時に大金が大坂市中から吸い上げられたため、諸藩は新規融資を受けにくくなり、江戸への為替送金にも支障が出ました。このため、この御用金令は、発令からわずか2カ月後の宝暦12年2月28日に中止され、買米の効果を上げることなく終わりました。

そればかりか、諸藩にとっては空米切手の禁止に金融状況の悪化が加わって、財政のやり繰りがますます困難になりました。こうした事情で、明和期に入ると、正米切手を購入した米仲買に、藩の蔵屋敷から現物の米が引き渡されないという事態も増えて、正米切手の信用もまた低下しました。

正米切手が流通不安になると、藩の財政運営はいっそう苦しくなりますから、幕府は安永2年(1773)、蔵屋敷から現物の米が引き渡されるまでの間、その資金を立て替える「官銀立替制」を実施して、正米切手の流通を保証しました。

このように、幕府は米価の引き上げに必死で取り組みますが、人口減少による需要減少が進んでいる以上、その効果は微々たるものでした。

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2011年2月17日 (木)

第1政策=財政を再建する

第1は財政改善をめざした、課税の多角化でした。

 石高経済から商品経済へと、経済構造が移行している以上、幕府財政の財源もまたそれに対応することが必要でした。そこで、新たに強化されたのが、冥加金運上金という課税制度でした。

冥加金とは、幕府から山野河海などの利用権や営業権を許可された商工業者が、そこから得られる収益の一部を、献金として上納するものです。

 運上金とは、商業、工業、運送業、漁業、狩猟などに従事する者に課せられた租税です。

 元々は、免許を与えられた営業者が利益の一部を上納するものを「冥加」、一定の税率で納めるものを「運上」というように区別されていましたが、江戸時代も中期になると、冥加にも税率が定められて毎年賦課されるようになったため、両者の違いはなくなりました。

田沼政権は、農村での商品生産と都市での商品流通の、それぞれの拡大に対応して、冥加・運上金を増徴しています。

 農村部については、田沼が老中に就任した安永元年(1772)、幕府勘定方が各代官に宛て、「酒造、醤油・酢の醸造、油絞り、水車稼ぎ、薪の河川積み出しなどで生計を立ててきた村々は冥加金を上納する筋があるので、詳しく調査せよ」との通達を出し、課税の強化を指示しました(『日本財政経済史料』)。

 これらの業種のうち、酒造については元禄年間から課税されていましたが、その他の業種についても、安永年間に株が確認され、冥加・運上金を支払うようになりました。

また都市の商工業者については、享保の改革で開始された株仲間へ、株・座・会所などの形態で鑑札を交付して営業の独占権を認めるかわりに、収益の一部を冥加・運上金として上納させる制度を拡大しました。

 代表的な事例としては、大坂の菜種・綿実問屋株銭小貸会所(宝暦10年=1760)、江戸神田紺屋町の朝鮮人参座(宝暦13年=1763)、関東8ヵ国の綿実買受問屋(明和4年=1767)、大坂の油問屋株と大坂周辺在方の油稼株(明和7年=1770)、菱垣廻船問屋株(安永2年=1773)、大坂の24組江戸積問屋の株仲間(天明4年=1784)などがありました。

これらの制度は、幕府の意図を大きく超え、特権を求める関連業者の献策でさらに拡大しました。

 木綿については、安永元年(1772)、大坂の木綿業者の献策で綿屋仲間を公認し、綿買次積問屋の株も定めました。

 続いて安永3年(1774)には仲買業者の献策で、摂津・河内地域の綿実と綿布の株仲間を組織し、大坂市内に木綿支配会所の設立を進めました。もっとも、安永3年の提案は、多数の仲買人を抱える、摂津平野郷の反対で中止されています(大口勇次郎「幕府の財政」『日本経済史2』)。

また蚕種については、明和7年(1770)、上野・下野の蚕種商人が、諸国産の粗悪品を防ぐために、奥州伊達領、下総結城領、上州長沼領の3カ所に品質検査所を設け、検査料として製造人より蚕種1枚につき銀1分ずつを徴収し、冥加金250両を上納するという蚕種改印制度を提案しました。

 幕府は地元の意見を聴取したうえで、奥州伊達領に限って、「本場種」の名称と改印料取得の権利を与え、年間180両の冥加金を上納させました。しかし、改印料で価格の上がった本場種は売り上げが低下したため、地元の要請で天明3年(1783)に廃止されています(同上)。

絹製品でも、天明元年(1781)、武蔵・上野の商人が、同地方で産する絹織物・糸・真綿の取引市場47カ所に、新たに反物及絹糸貫目改所を設置して、生産者や仲買人から改め料を徴収する、という請願を出しました。

 幕府は6月に3年間に限って10カ所の設置を許可しましたが、8月に生絹生産地帯の西上州53カ村の百姓3000人が反対運動を起こし、大規模な打毀しにまで発展したため、この計画も断念しています(同上)。

以上のように、冥加・運上金を前提にした、新たな株仲間や検査制度では、商工業者の提案によるものが増えてきますが、それがゆえに株から排除されたり、費用負担の上昇を嫌う業者からの反対も大きく、実施途上で挫折するケースもかなり出ています。

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2011年2月16日 (水)

田沼意次の十大政策

田沼政権が最初に直面した問題は、やはり幕府財政の建て直でした。

 八代将軍・吉宗の厳しい倹約政策と年貢政策で、幕府の財政収支はかなり改善され、御金蔵の備蓄金も、享保16年(1731)の13万両から、寛保元年(1741)には35万両、吉宗没年の宝暦元年(1751)には96万と、ほぼ100万両に達していました(三上隆三『江戸の貨幣物語』)。

 当時の財政規模は180~200万両でしたから、ほぼ半年分の備蓄を用意していたことになります。

しかし、「定免制」による増税政策は、天領への搾取を強めましたから、延享~宝暦期に入ると、百姓一揆が増発し、年貢は徐々に減少しはじめます。それでも享保の改革の余波でさまざまな賦課金が伸びていましたから、宝暦中期まではなお備蓄を増やすことができたようです。

もっとも、改革の余禄はそこまでで、幕府の年間収支は、田沼意次が幕政に関与しはじめた宝暦8年(1758)をピークに急速に悪化し、6年後の明和元年(1764)にはついに赤字となって、以後数年はその状態が続きました。

それゆえ、田沼政権にとっても、火急の課題は税収の増加策でした。政権の中枢に入った田沼は、石高経済を維持・再建しつつも、新たな財源の拡大に全力を注ぎます。その努力が実って、13年めの明和8年(1771)には年間収支を黒字に転換させ、以後は安永期の終わるまでのほぼ10年間、プラス状態を続けます。

 この成功を基礎に、さらに田沼は長期的な政策にも取り組み、新たな貨幣・金融・課税政策、斬新な産業育成政策、新田開発や蝦夷地開発政策を展開していきました。

相次いで打ち出された新政策には、成功したものもあれば、速攻ゆえに失敗したものも多数ありました。

 その詳細については、辻善之助『田沼時代』、大石慎三郎『田沼意次の時代』、藤田覚『田沼意次』など、先達研究家の貴重な研究があります。これらの研究を基礎に、新たな視点から整理してみますと、次の十大政策が浮かんできます。


以下では、1つひとつ紹介しながら、それぞれの功罪を確かめてみましょう。

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2011年2月15日 (火)

田沼意次の登場

(本日より、4章 濃縮対応の「明和~天明」期 に入ります


人口減少がしばらく続いていると、ようやく世の中はその状態になじんできます。それとともに、新たな事態に対応しようという、積極的な動きがはじまります。

江戸時代でいえば、明和から安永を経て天明期(1764~88)に至る20数年間で、当時の人口は明和5年(1768)の3150万人から天明6年(1786)の3010万人へと、約140万人も減っています。

この時代に幕政の実権を担って、大胆な政策を展開したのが、老中兼側用人の田沼意次でした。

 田沼は、八代将軍・徳川吉宗による享保の改革や大岡忠光による側用人執政の後を受けて登場し、幕政の基礎である石高経済を根本から見直して、重商主義的な財政運営を導入しました。その画期性ゆえに、彼の執政した20数年は「田沼時代」と名づけられています。

田沼意次は、紀州藩の足軽から旗本に登用された田沼意行の長男として、享保4年(1719)に江戸で生まれ、同19年(1734)、吉宗の世子・徳川家重の西丸小姓に抜擢されて、同20年(1735)に田沼家600石を継承しまました。

元文2年(1737)、従五位下主殿頭に叙され、延享2年(1745)には家重の九代将軍就任に随って、本丸に移りました。寛延元年(1748)に小姓組番頭格から小姓組番頭に昇格して1400石を加増、さらに宝暦元年(1751)、御側御用取次側衆に異動し、同5年(1755)に3000石を加増されています。

 同8年(1758)、美濃国郡上藩の郡上一揆に関する審理の際に評定所への出座を命じられたため、一万石の大名に取り立てられて、遠江国相良に領地を与えられました。

同11年(1761)に、家重は死去しましたが、その遺言によって、世子の十代将軍・徳川家治御用取次に留任し、明和4年(1767)に側用人、従四位下に昇進、石高は2万石となりました。続いて同6年(1769)、側用人のまま老中格、侍従に、さらに明和9=安永元年(1772)、ついに老中に任じられました。

 それまでにも、側用人が老中格(柳沢吉保)や若年寄(大岡忠光)に昇進した例はありましたが、老中になったのは田沼が初めてでした。

天明年間(1781~1788)に入ると、天明3年(1783)に岩木山浅間山が噴火し、日射量の低下で数年にわたって、各地で深刻な飢饉が起こりました。

 そうした中でも、息子の田沼意知を若年寄に昇進させ、意次の権勢はいっそう拡大しましたが、翌天明4年(1784)、意知が江戸城中で傷つけられて死ぬという事件が起こり、前途にやや翳りが生じました。

 それでもなお、意次は天明5年(1785)に1万石を加増され、遠江国相良藩5万7000石の大名になっています。しかし、天明6年(1786)、将軍・家治の死によって、閏10月に差控を命ぜられ、ついに失脚しました。

このような経緯で、短期間に異例の昇進をとげた田沼は、宝暦11年(1761)ころから、明和(1764~71)、安永(1772~80)を経て、家治の死去で失脚する天明6年(1786)までの20数年間幕政の中枢を担っていきます。

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2011年2月12日 (土)

政治も経済も停滞する

これまで述べてきたように、「平成延宝」の社会は、人口減少という新たな現実に戸惑って、閉塞感、不機嫌性、攻撃性などを募らせていきます。そのうえ、政治や経済もまた、こうした現実にたじろいで適切な対応を見つけるには至りません。しばらくの間は無為無策の混迷状態が続いていくものと思われます。

政治でいえば、自由民主党から民主党へと政権が移行したにもかかわらず、政治構造そのものは一向に変わらず、大御所政治や側用人執政のように、権力の二重三重構造がはびこって、リーダーシップの形骸化が目立つようになります。既存政党から分離した小政党が乱立するようになりますが、いずれの政党も過去の政治姿勢や権力発想から脱却しきれず、無用な権力抗争を続けることになります。

また政治家や官僚の発想力も、人口増加時代の価値観をなお引きずって、いたずらに成長拡大路線への復帰を狙うあまり、無効であるばかりか無用な政策にとらわれていますから、拡大する政治課題への解決には、ほとんど弥縫策に終わることになります。

経済分野においても、企業人やエコノミストの多くがやはり人口増加、成長・拡大路線から脱却できず、急拡大する近隣新興国への輸出ばかりに気をとられて、内需構造の変化への対応に立ち遅れることになるでしょう。

 あるいは、過去のモノづくり発想にとらわれて、人口減少・飽和・濃縮社会に見合った暮らしを創造しようとする、真の生活者のコトづくり需要を見逃すことになります。

こうして平成20年代、つまり2008年から2017年ころまでの日本は、いっそう強まる閉塞感の下で、新たな方向を模索しつつ、なおも鬱積した気分を続けることになるでしょう。(3章・終・・・ご意見はコメント欄へ)

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2011年2月10日 (木)

引きこもる人々

3番めの特徴は、引きこもり現象の増加です。閉塞化の進展で他人への攻撃性が強まり、圧迫度の高い社会が続いていると、他人と接触すればするほど自意識が傷つく機会が増えてきます。そこで、できるだけ接触を避けて自分を閉ざし、内側に引きこもっていく人たちが増えてきます。

ヨーロッパの中世後期にも、農村での農民の集団逃走や商業都市での乞食の増加といった現象が見られました。

 日本の江戸中期にも「無宿」という形で、閉塞社会から〝降りる〟人たちが増加しています。無宿には、乞食や物もらいなどの無宿野非人(のひにん)や、長脇差を腰に差した浪人博徒などの無宿人も含まれていますが、18世紀の中ごろから江戸や大坂などの大都市で発生し、その後半に急増して、社会不安を起こすようになりました。このため、幕府は安永7年(1778)、江戸、大坂、長崎などの無宿人を捕らえて、佐渡金山の水替人足に送り込んでいます。

他方、知識階層でも一種の引きこもり現象が起きていました。身分制度が固定化し社会全般に停滞の気配が漂いはじめた享保期以降、知識人の間でも身につけた学問や教養を生かす術がないという不満や挫折感が広まっていました。

 彼らの中から、現実への関心を捨てて、芸術や趣味の世界に自己の才能を傾注する生き方を選んだ人たち、いわゆる「文人」が生まれました。文人画の池大雅、俳諧と文人画の与謝蕪村、狂歌師で戯作者の大田南畝といった人たちで、現代風にいえば「オタク・アーティスト」です。

以上のように、歴史上の引きこもり現象は、一方では無宿、つまりホームレスを、他方では文人、つまりオタクを、それぞれ増加させています。こうした事例を参考にすると、平成20年代(2008~17)には、同様の傾向が強まることが予想できます。

 すでに昨今の世相でも、学校や職場からひとまず身を引いて、自室に閉じこもる〝引きこもり〟現象、社会から一旦降りて放浪する〝ホームレス〟現象、一つの組織に囚われない〝フリーター〟現象などが増えています。一般の生活者の間に広がっている無関心・無干渉主義もまた、同じ傾向の一端でしょう。

 さらにはこうした意識の延長線上に、先にあげた自意識の過剰が加わって、自分の好きなモノだけに執着するフェティシズムや、自分の好きな世界だけに埋没していくオタク志向も拡大しています。

こうした傾向は飽和期が進むにつれてさらに強まり、平成20年代には、仕事のない無職者やフリーターが増加し、ホームレスが増えていくことも予想されます。もっとも、その一方では、積極的にオタクを選んだ人々の中から、斬新なアーティスト、意外な発明家、大胆な起業家などが育ってくる可能性がないとはいえません。

そこまではいかないとしても、いわゆる「内向き」志向が強まってくるのは、もはや避けようがありません。

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2011年2月 9日 (水)

強まる攻撃性

2番めの特徴は、自分の領分が少しでも侵されると、自分自身が傷つけられたと過敏に感じて、過剰に反発する人が増えてくることです。

 人口容量が伸びない以上、他人との関わり方にますます敏感になるうえ、自己肥大化で不機嫌になっていますから、ほんの些細なことでも爆発的に暴力に走るケースが増えてきます。

ヨーロッパの中世後期でいえば、1370年以降に、農民一揆が続発しています。封建領主による農業経営から自立しはじめた農民層に対して、支配者側はさまざまな抑圧を続けていましたから、フランスではジャックリーの乱、イギリスではワット・タイラーの乱、南ドイツではアペンツェル戦争など、地域的な農民一揆が起こっています。

 1358年に発生したジャックリーの乱は、1カ月で約1万に達し、また1381年にはじまったワット・タイラーの乱はロンドンを占領し、リチード二世と会見して、農民の権利拡大を要求しています。

江戸中期の日本でも、百姓一揆都市打毀が多発していました。百姓一揆では、先に述べたように、延享・延享・宝暦年間、小百姓が参加する惣百姓一揆が急増し、明和元年(1764)の関東大一揆(伝馬騒動)には、20万人もの小百姓が参加して、幕政を揺るがすほどになりました。

 一方、都市打毀しも、宝暦期(1751~63)になると、都市の庶民層が中心勢力となった惣町一揆が各地で勃発しました。

このように人口容量が飽和した社会では、身近な集団の中ではじまった攻撃行動が、次第に社会全体に広がり、やり場のない不満を手当たり次第にぶつけるようになります。

 昨今の日本でも、満員電車や混雑した駅などでは、ちょっと押されたり肩が触れ合っただけで、いがみあったり喧嘩に走り出しています。あるいは一瞬目を合わせただけで、悪意を感じて極端にキレたり、異常な攻撃にも出るケースも増えています。

 その延長線上で、最近のニュースには、無差別殺傷事件個室ビデオ店放火事件通行人連続殺傷事件など、異常な犯罪行為がしばしば登場しています。

一方、接触する機会が極めて濃密な知人や家族の集団においても、学友や仕事仲間の間ではイジメやシカトが、親子の間では幼児虐待家庭内暴力老人虐待が、夫婦や恋人の間ではドメスティックバイオレンスなどが、それぞれ頻発しています。

 それらが行き着いた先が、幼児殺人老親殺人といった、極めて悲惨な事件です。

いずれも閉塞社会の一面を示していますが、こうした現象は今後さらに広がっていく可能性があります。

 とりわけ、平成20年代(2008~17)には、失業者、破産者、あるいはフリーターなどの増加に伴い、彼らが徒党を組んで示威運動を展開する可能性も考えられます。

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2011年2月 8日 (火)

肥大化する自意識

最初に指摘すべきは、自意識の肥大化です。人口容量の制約がさまざまな形でその身に及びはじめると、人々は不安や危機を感じて、とにかく自らの身を守らねばならないと自分自身を強く意識します。

人口容量が拡大していた時代には、自分の心身、生き方、時間、経済状態などで、かなりの豊かさや自由さを満喫できましたから、さほど自分を意識する必要はありませでした。


 ところが、閉塞化が強まにつれて、ほんの僅かの制約が現れただけで、人々は敏感に自分自身を意識し、ともすれば自己中心主義やミーイズムに走りだします。

こうした自意識の拡大が、結局は晩婚化・非婚化を進め、嬰児殺しを増やします。中世後期のイギリスでも、人口容量が飽和化した14世紀ころから、一般庶民はもとより中流層の間でも晩婚化・非婚化が進みはじめ、15世紀中葉には総人口の4分の1が非婚者であった、と推定されています(N・F・カンター『黒死病』)。


 また13世紀中葉から14世紀末期にかけての男女児の性比は、ペスト流行の一時期を除いて、「女:男=3:4」と極めて不自然で、人口を抑制するために、意図的に女児への嬰児殺しがあったことを示しています(R・G・ウイルキンソン『経済発展の生態学』)。

日本でも、集約農業文明による人口容量が飽和化した江戸中期に、農村では多くの農民たちが、堕胎や間引き(嬰児殺し)などを頻繁に行っていました。1章で述べたように、それは飢饉や凶作のために「やむなく」行われたのではなく、多くの子供を持つよりも1人当たりの所得を最大化し、生活水準の維持・改善をめざすという選択の結果でした。

 それゆえ、江戸時代の出生率は、生活水準がより低かった17世紀よりも、生活水準が上がった18~19世紀の方が、逆に低下しました。結局、人口容量が飽和した江戸中期にも、晩婚化・非婚化志向や生活水準優先志向といった個人主義志向が目立ったのです。

歴史的な先例を参考にすると、今後の日本社会が読めてきます。一向に不況が回復しない経済状況の中で、すでに日本人の多くは肥大化した生き方や生活水準を割くことを恐れて、他人との結婚は避け、晩婚化・非婚化へと突き進んでいます。

 たとえ結婚したとしても、それまでの生活水準が落ちるのを恐れて、子どもを作ることを極力回避しますから、出生率は下り続けています。あるいは高齢世代の扶養負担を嫌って、年金加入を忌避していますから、やがては80~90代の人々の寿命を縮めることになります。

人口抑制行動に現れた、このような意識は、平成20年代(2008~17)を生きる日本人の、最も基本的な生活価値観となっています。昨今の社会で、若い世代から中高年にまで、ジコチュー(自己中心主義)ミーイズムが広がりはじめているのは、まさにこうした意識のせいです。とすれば、自己肥大化という傾向は、人口減少ショックの余震がなお続く平成30年代まで、なおも続いていくでしょう。

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2011年2月 7日 (月)

人減ショックが続く

人口が減りはじめた社会、つまり人口容量の壁にぶつかった時代には、従来の人口増加社会とは異なる、特有の社会心理が浮上してきます。この背景には、次の式が示すような社会の基本構造が潜んでいます。

   P(総生産量)
   V(人口容量)=─────────────────
            
L(人間1人当たりの生活水準)

右の式は、人口容量、総生産量、1人当たりの生活水準の関係を示しています。V(人口容量)とは、文明が作り出したP(総生産量)を、L(人間1人当たりの生活水準)で割った数字である、ということです。

この式で、Ⅴが伸びている時には、Pも伸びており、したがってLも伸びています。人口容量が伸びている時代には、総生産量も伸びていますから、当然、人間1人当たりの生活水準も上昇していく、ということです。

ところが、Vが停まった時には、Pも伸びなくなっていますから、Lも伸びません。それでもなおLが伸び続けていると、Vは逆に減っていきます。つまり、人口容量が停まった時、1人ひとりの生活水準が上昇し続けていると、容量はますます減っていく、ということです。

 そうなると、上昇はともかくも、今までの生活水準を維持しようとすれば、人口を抑えることが必要です。そこで、親世代は子どもを減らし、子ども世代は高齢世代の世話を縮小していくようになります。

こうした環境下で1人ひとりの選ぶ、晩婚や非婚という結婚抑制行動、避妊や中絶などの出産抑制行動、世話の拒否や年金負担の忌避といった扶養敬遠行動は、やがて集団全体に広がって人口を減らしていきます。


 これこそ人間特有の「人口抑制装置」(詳しくは古田隆彦『日本人はどこまで減るか』参照)の実態ですが、それに留まるものではありません。この傾向は人口の増減という次元を超えて、さらに社会全体の人間関係にも広がって、世の中にせちがらい風潮を蔓延させていきます。

なぜなら、世の中全体の豊かさが伸び悩む時、なおも自分だけの豊かさを広げようとすれば、他人の豊かさを奪うしかない。そこで、お互いの競争が激しくなり、それが行き過ぎると、イジメやシカトなど歪んだ形に変わり、あるいは不条理な攻撃性を増していきます。さらにそれが過激になると、他人を避けて自分だけの世界に引き籠もったり、あるいは競争に疲れ果てて自傷行為に走る人たちも増えてきます。

人口容量の伸びていた時には、人々が自意識を肥大させ、生活願望をどれだけ膨ませても、それなりに許容できました。だが、容量が伸びなくなったのに、自意識をますます膨らませた人々が増えれば、世の中は急速に息苦しくなります。必然的に競争が激しくなり、攻撃的になったり、逆に自閉的になったり、ついには脱落していく人たちも増えてくるということです。

こうした閉塞した時代の社会心理を、3つの側面から考えてみましょう。

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2011年2月 6日 (日)

平成延宝を読む

この社会ムードは、同じように人口ピークを過ぎて5年ほどたった現代日本にも、ほぼ当てはまると思います。

現代日本の人口は、平成22年(2010)の1億2700万人から平成32年(2020)には1億2122万人~1億2274万人へ、400~600万人も減っていきます(国立社会保障・人口問題研究所2006年推計低位値~中位値)。この10年間の社会を、「延享から宝暦まで」を略して「延宝」、つまり「平成延宝」と名づけたうえで、藁科松伯の文章を大胆に読み替えてみましょう。

平成20年代(2008~17)の日本では、ほぼ半世紀以上も戦争にも巻き込まれず、国内でもさほど大きな紛争も起こらない社会が続いてきましたから、国民は安逸をむさぼり、上下を問わず奢りの病根を抱くようになりました。奢りが高まってくると、病的症状が表に顕れて、誰も彼も気難しくなってきます

気難しくなると、些細なことにでも立腹しやすくなりますから、周りの人々と対立すると、衝動的な行動に走ることもあります。少しでも変事があれば、人心は大きく衝撃を受けて、ふらふらと動揺します。

いわんや労働者派遣、税金、国民年金、健康・介護保険、生活保護、高速道路使用料など、国民の生活に切実な政策は、政権の恣意でころころと変りますから、あちこちから不満が高まってきます。

派遣切り社員が増加すれば、ネットカフェ難民が騒ぐ。配偶者控除除外者が怒れば、低所得者も抗議する。年金受給者が記録漏れを訴えれば、負担者の多くは年金破綻を指摘する。高齢者が「後期高齢」を否定すれば、生活保護排除者が大泣きする。一般ドライバーが負担増を告発すれば、フェリー業者が苦境を訴える。

このように国民の心が騒がしくなると、結局のところ、一度は治った世の中は再び乱れるのが天の常道である以上、社会全体の揺れる兆しもそろりそろりと現れてきます。

以上のように、約250年前の文章は、少し単語を変えれば、現代社会にそのまま当てはまります。なぜこんなことができるのでしょうか。それは、いかに時代が違うとはいえ、人口容量が飽和した社会の、最も基本的な構造が極めて似ているからだと思います。その構造とはどのようなものなのか、人口容量のしくみから考えてみましょう。

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2011年2月 4日 (金)

気難しい時代

この時代の様相を、米沢藩医・藁科松伯(貞祐)は、幼い世子・上杉治憲(鷹山)の将来を慮って、宝暦の次の明和初年に次のように述べています。

「当時の勢ひは、最早太平打続き、四海静過ぎて、上下共著りの病根ゆへ、次第に病症顕はれ申候て、誰も彼も気むつかしく御座候間、腹立気持の人情に成候ゆえ、少しも常に変り候事か御座候へば、人の心動き立候てふらふら仕る様に御座候。況や年貢取立て百姓あたりの辛き事か、常に変り候仕形あれば、年々に打続き候て、そこもここも一挟・徒党の沙汰にて、日光が済めば山県大弍が出現、大坂が騒げば佐渡ゆるる、伊勢路もめれば越路もかしましく、斯様に百姓の心騒しく成行候も畢寛は、一度は治り、一度は乱れ候天道の事に御座候へば、そろりそろりと天下のゆるる兆も御座あるべく候」(池田成章編『鷹山公世紀』吉川弘文館・1906)

やや難解ですから、筆者なりに意訳してみましょう。

「当今の世相は、永らく平和が打ち続き、国際環境も静か過ぎて、上下を問わず国民は奢りの病根を抱いていますが、その病状が次第に顕れて、誰も彼も気難しくなっています。腹立たしい気持にかられるゆえに、少しでも変事があれば、人心はざわめいてふらふらと揺れることになります。いわんや年貢取立てでは、百姓には大変辛いことに徴収方法がころころと変り、それが年々続いていますから、そこにもここにも一揆・徒党の沙汰です。日光が済めば、山県大弍が出現し、大坂が騒げば、佐渡も揺れる。伊勢路がもめれば、越路も喧しい。このように百姓の心が騒がしくなると、つまるところ、一度は治り一度は乱れるのが天の常道である以上、そろりそろりと天下の揺れる兆しも現れております」

こうしてみると、表面は平穏に見えながらも、内部ではどろどろと鬱屈した気分が沈潜しているという、時代のムードが見事に描かれていることがわかります。人口のピークを過ぎたにもかかわらず、次の方向を未だに見出せない時代とは、おそらくこのようなものなのでしょう。

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2011年2月 3日 (木)

はじまった幕政批判

一揆の拡大と呼応するように、この時代になると、開幕以降初めて、尊王思想によって幕政を批判する動きがはじまっています。

宝暦6年(1756)11月、京都所司代は垂加神道家竹内式部に対し、公家への出入差し控えを警告しました。竹内式部は正徳2年(1712)越後の医師の家に生まれ、享保13年(1728)ころに上京して徳大寺家に仕え、山崎闇斎門下の松岡仲良玉木正英に師事して、儒学や神道を学んだ後、自ら家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授しました。垂加神道とは「天地開闢の神の道と天皇の徳とが唯一無二のもの」と考える強烈な尊王思想です。

当時の京都では、幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家が衰退の危機にあり、一条家以外の若い公家達の間では、幕府の専制と摂関家による朝廷支配に不満が高まっていました。そこで、式部から神書・儒書の講義を聴いた公家たちは、桃山天皇への直講を計画し、宝暦6年(1756)に実現させました。

これに対し、朝幕関係の悪化を憂慮した前関白一条道香は、天皇近習の7名を追放したうえ、公卿の武芸稽古を理由に宝暦8年(1758)、式部を京都所司代に告訴しました。同年7月、所司代は式部を拘禁したうえ、翌宝暦9年(1759)、重追放で京都から追放し、式部の門弟の公卿17人も罷免・永蟄居・謹慎などに処しました。

いわゆる「宝暦事件」ですが、この事件によって、幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は、摂関家に反発を抱き、天皇家と摂関家の対立が激化しました。両者の対立は、桃園天皇が22歳の若さで急死する宝暦12年(1762)まで続きました。

ところが、宝暦9年(1759)2月になると、今度は江戸で、山県大弐が『柳子新論』を著して、尊王論を展開し、幕政を批判しました。山県大弐は、享保10年(1725)、甲斐に生まれ、甲府に出て加々美光章五味釜川らの学者に学び、寛保2年(1742)に上京して、医術のほかに儒学も修めた後、甲斐の山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説きました。延宝2年(1750)、弟の起こした殺人事件に巻き込まれて浪人となり、宝暦6年(1756)ころに江戸へ出て、若年寄の大岡忠光に仕えました。

ところが、忠光が没したため、大岡家を辞して、江戸八丁堀長沢町に私塾「柳荘」を開きました。この塾で彼は古文辞学の立場から、儒学や兵学を講じていましたが、『柳子新論』の中で激しい幕政批判を展開しました。

その柳荘へ、竹内式部の盟友・藤井右門が寄宿し、『兵書雑談』を著して、江戸攻略の軍法などを説きました。藤井は「宝暦事件」に連座して江戸に逃れていたのです。両人の言論に激怒した幕府は、大弐の弟子に上野国小幡藩士が多かったことから、同藩の内紛にかこつけて2人を逮捕し、明和4年(1767)、大弐を死罪に、右門を磔刑に処しました。さらに竹内式部も関与を疑われて、八丈島に流罪となり、護送中の三宅島で病没しています。これが「明和事件」です。

宝暦・明和事件は、幕府権力の固定化に対応して、尊王思想の復活を意図したものでしたが、いずれも幕府の弾圧によって抑えこまれています。しかし、その後も社会の深部に沈潜し、やがて100年後に明治維新を引き起こす原動力となっていきます。

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2011年2月 2日 (水)

年貢強化が一揆を招く

急激な米価変動に晒されつつ、幕府はなお財政健全化への努力も進めました。吉宗政権の延長線上で、延享4年(1747)3月に奥州半田銀山を直轄化し、寛延2年(1749)5月には、年貢徴収に関する定免制を全面的に施行するなど、収入を増やす努力を続けています。

それでも財源が減少したため、大岡忠光の執政下になると、宝暦5年(1755)2月、諸役所の経費節減のために勝手向御用掛を任命し、4月には向こう3年間にわたる役所毎の年間支出額を定めるなど、経費節減を実施しています。

しかし、宝暦5年の奥羽冷害で津軽、八戸、盛岡藩などに飢饉が広がって、多数の餓死者が出ました。そこで、幕府は各藩に救援米を送り、翌年には出羽庄内藩へ救助金として1万両を貸し与え、続いて熊本藩や津軽藩などへも救済措置をとりました。

宝暦6年(1756)3月には、天領についても、村高に対して課せられた付加税である高掛物(たかかかりもの)を免除し、宝暦7年(1757)12月には、夏の洪水で大きな被害を受けた関東の7藩へ恩貸金を出し、関東、北陸、東海道筋に領地を持つ旗本にも貸与の申請をするよう命じています。

このため、幕府財政は再び悪化しましたので、宝暦8年(1758)12月、幕府が実施する河川修理について、諸藩が費用を負担する国役普請制を、翌年から復活することを決定しました。

ところが、定免制の全面的な施行は、農民層の負担を増加させましたから、延享~宝暦年間になると、全国で百姓一揆打毀し(うちこわし)が拡大しました。延享年間(1744~47)には、延享2年の河内・摂津における旧大和川筋新田地帯の増徴反対の越訴、3年の豊後日田の越訴や美作勝南地方の百姓逃散、4年の羽前上ノ山藩の打毀しや強訴と続いています。

寛延年間(1748~50)に入ると、寛延元年の越前福井藩や播州姫路藩の百姓一揆、2年の岩代二本松藩や会津藩の百姓強訴、佐渡の百姓強訴などが勃発し、さらに宝暦年間(1751~63)には、宝暦元年の信濃松代藩の百姓強訴、4年の久留米藩の一揆、3年の備後福山藩の百姓一揆、4年の久留米藩の大一揆、5年の郡上藩農民代表の駕籠訴など、毎年のように発生しています。

そこで、幕府は寛延3年(1750)1月に、百姓の強訴・徒党・逃散の禁止を布告し、さらに宝暦5年(1755)5月には百姓一揆鎮圧令を出しています。だが、それにもかかわらず、宝暦5年の奥州冷害・飢饉以降はなおも各地で一揆が発生しました。

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2011年2月 1日 (火)

続く「米価安の諸色高」

この時期には、粗放農業生産が上限に達したという人口容量の壁の下で、いかに安定した社会を作り出すかが幕政の課題でした。しかし、当時の幕府は吉宗政権の長期化に伴って、徐々に惰性化が進行していましたから、さまざまな矛盾が噴出しました。

経済体制ではやはり石高経済が続いていましたから、米価の上昇諸色高の抑制が幕政の大きな課題でした。米価は元文改鋳の後、徐々に上がりはじめ、1740年前後に60~70匁台を回復していましたが、その後再び低下傾向が現れていました。貨幣政策で持ち直したものの、実需不足がさらに進行したからです。

このため、延享元年(1744)9月、幕府は蔵米を担保とした御家人の借金帳消し令(棄捐令)を出す一方で、米価の引上げをめざして、江戸・大阪の町人に買米を命じ、さらに12月には米売買取締のため米吟味所を設置しています。

ところが、寛延年間(1748~50)に入ると、米価安で町人の間にはかえってゆとりが生まれ、それが新たな消費文化を生み出しました。例えば寛延元年の夏、大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が、翌年には江戸の三座で歌舞伎として競演され、大勢の観客を集めました。また町人の間では、歌舞伎役者・沢村宗十郎を真似た宗十郎頭巾が流行し、上野不忍池畔には出合茶屋、揚弓場、講釈場など、新たな遊興産業も出現しました。

とはいえ、「米価安の諸色高」は、武家層にとっては、俸禄の目減りとなりましたから、幕府は新たな対策として、町人の奢侈行動の規制に出ました。寛延元年(1748)3月には、流行しはじめていた女羽織の着用を禁止し、また寛延2年5月には、江戸町奉行が町方の婦女が菅笠の代わりに青紙張りの日傘をさすことも禁じています。さらに宝暦2年(1752)6月には、不忍池畔の出会茶屋59軒と抱え女を置く家などを廃業させ、翌3年8月には、町方での銀道具の流行をおさえるため、材料となる灰吹銀や潰銀などを、銀座以外で売買することを禁止する達しも出しました。

こうして幕府は諸色高の抑制に努めましたが、宝暦3年(1753)は豊作となり、秋口から米価がさらに下落しました。そこで、幕府は再び倹約令を発して奢侈を禁じるとともに、1000石以下の旗本・御家人の苦境を救済すべく、翌々年からの十年年賦の返済を条件に、彼らに貸付金を与えました。

他方、宝暦4年(1754)11月には、さらに米価を上げるため、正徳5年(1715)に出されていた酒造制限令を撤廃して、酒の生産量を元禄10年(1697)の水準へ復活させることを決めました。この政策転換によって、新酒・寒造とも醸造は自由化され、新規営業も管轄地の奉行や代官に届け出るだけで容易に許可されるようになりました。

ところが、宝暦5年(1755)の夏、奥羽地方に雪が降るという大冷害が発生し、米価は一変して高騰したため、同年12月には、幕府領および諸大名の備蓄米である囲籾(かこいもみ)うち、1年分を米問屋に払い下げるように命じました。翌年6月になっても、なお米価の騰貴が続いていたため、米問屋による買占めや高値販売を厳しく禁止しました。だが、同年の秋は一転して豊作となり、今度は米価が下がったため、必要な米の買い置きは認めるように変更しました。

このように当時の石高経済は、気候変動に伴う米穀生産の増減と町人層からの需要増加による諸色高に翻弄されて、大きく揺れ動いています。

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