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2011年2月 2日 (水)

年貢強化が一揆を招く

急激な米価変動に晒されつつ、幕府はなお財政健全化への努力も進めました。吉宗政権の延長線上で、延享4年(1747)3月に奥州半田銀山を直轄化し、寛延2年(1749)5月には、年貢徴収に関する定免制を全面的に施行するなど、収入を増やす努力を続けています。

それでも財源が減少したため、大岡忠光の執政下になると、宝暦5年(1755)2月、諸役所の経費節減のために勝手向御用掛を任命し、4月には向こう3年間にわたる役所毎の年間支出額を定めるなど、経費節減を実施しています。

しかし、宝暦5年の奥羽冷害で津軽、八戸、盛岡藩などに飢饉が広がって、多数の餓死者が出ました。そこで、幕府は各藩に救援米を送り、翌年には出羽庄内藩へ救助金として1万両を貸し与え、続いて熊本藩や津軽藩などへも救済措置をとりました。

宝暦6年(1756)3月には、天領についても、村高に対して課せられた付加税である高掛物(たかかかりもの)を免除し、宝暦7年(1757)12月には、夏の洪水で大きな被害を受けた関東の7藩へ恩貸金を出し、関東、北陸、東海道筋に領地を持つ旗本にも貸与の申請をするよう命じています。

このため、幕府財政は再び悪化しましたので、宝暦8年(1758)12月、幕府が実施する河川修理について、諸藩が費用を負担する国役普請制を、翌年から復活することを決定しました。

ところが、定免制の全面的な施行は、農民層の負担を増加させましたから、延享~宝暦年間になると、全国で百姓一揆打毀し(うちこわし)が拡大しました。延享年間(1744~47)には、延享2年の河内・摂津における旧大和川筋新田地帯の増徴反対の越訴、3年の豊後日田の越訴や美作勝南地方の百姓逃散、4年の羽前上ノ山藩の打毀しや強訴と続いています。

寛延年間(1748~50)に入ると、寛延元年の越前福井藩や播州姫路藩の百姓一揆、2年の岩代二本松藩や会津藩の百姓強訴、佐渡の百姓強訴などが勃発し、さらに宝暦年間(1751~63)には、宝暦元年の信濃松代藩の百姓強訴、4年の久留米藩の一揆、3年の備後福山藩の百姓一揆、4年の久留米藩の大一揆、5年の郡上藩農民代表の駕籠訴など、毎年のように発生しています。

そこで、幕府は寛延3年(1750)1月に、百姓の強訴・徒党・逃散の禁止を布告し、さらに宝暦5年(1755)5月には百姓一揆鎮圧令を出しています。だが、それにもかかわらず、宝暦5年の奥州冷害・飢饉以降はなおも各地で一揆が発生しました。

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