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2011年2月 3日 (木)

はじまった幕政批判

一揆の拡大と呼応するように、この時代になると、開幕以降初めて、尊王思想によって幕政を批判する動きがはじまっています。

宝暦6年(1756)11月、京都所司代は垂加神道家竹内式部に対し、公家への出入差し控えを警告しました。竹内式部は正徳2年(1712)越後の医師の家に生まれ、享保13年(1728)ころに上京して徳大寺家に仕え、山崎闇斎門下の松岡仲良玉木正英に師事して、儒学や神道を学んだ後、自ら家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授しました。垂加神道とは「天地開闢の神の道と天皇の徳とが唯一無二のもの」と考える強烈な尊王思想です。

当時の京都では、幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家が衰退の危機にあり、一条家以外の若い公家達の間では、幕府の専制と摂関家による朝廷支配に不満が高まっていました。そこで、式部から神書・儒書の講義を聴いた公家たちは、桃山天皇への直講を計画し、宝暦6年(1756)に実現させました。

これに対し、朝幕関係の悪化を憂慮した前関白一条道香は、天皇近習の7名を追放したうえ、公卿の武芸稽古を理由に宝暦8年(1758)、式部を京都所司代に告訴しました。同年7月、所司代は式部を拘禁したうえ、翌宝暦9年(1759)、重追放で京都から追放し、式部の門弟の公卿17人も罷免・永蟄居・謹慎などに処しました。

いわゆる「宝暦事件」ですが、この事件によって、幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は、摂関家に反発を抱き、天皇家と摂関家の対立が激化しました。両者の対立は、桃園天皇が22歳の若さで急死する宝暦12年(1762)まで続きました。

ところが、宝暦9年(1759)2月になると、今度は江戸で、山県大弐が『柳子新論』を著して、尊王論を展開し、幕政を批判しました。山県大弐は、享保10年(1725)、甲斐に生まれ、甲府に出て加々美光章五味釜川らの学者に学び、寛保2年(1742)に上京して、医術のほかに儒学も修めた後、甲斐の山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説きました。延宝2年(1750)、弟の起こした殺人事件に巻き込まれて浪人となり、宝暦6年(1756)ころに江戸へ出て、若年寄の大岡忠光に仕えました。

ところが、忠光が没したため、大岡家を辞して、江戸八丁堀長沢町に私塾「柳荘」を開きました。この塾で彼は古文辞学の立場から、儒学や兵学を講じていましたが、『柳子新論』の中で激しい幕政批判を展開しました。

その柳荘へ、竹内式部の盟友・藤井右門が寄宿し、『兵書雑談』を著して、江戸攻略の軍法などを説きました。藤井は「宝暦事件」に連座して江戸に逃れていたのです。両人の言論に激怒した幕府は、大弐の弟子に上野国小幡藩士が多かったことから、同藩の内紛にかこつけて2人を逮捕し、明和4年(1767)、大弐を死罪に、右門を磔刑に処しました。さらに竹内式部も関与を疑われて、八丈島に流罪となり、護送中の三宅島で病没しています。これが「明和事件」です。

宝暦・明和事件は、幕府権力の固定化に対応して、尊王思想の復活を意図したものでしたが、いずれも幕府の弾圧によって抑えこまれています。しかし、その後も社会の深部に沈潜し、やがて100年後に明治維新を引き起こす原動力となっていきます。

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