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2011年3月

2011年3月22日 (火)

しばらくお待ちください。

 このブログをチェックしていただいている皆様、ご愛読、ありがとうございます。

 親戚に被災者がおり、まだ避難所生活です。今、続きを書くゆとりがありません。

 今回の大震災について、いろいろ考えることがありますが、整理して書き込むまでには至りません。

 しばらくお待ちいただきたく、よろしくお願いします。                平享亭主人

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2011年3月12日 (土)

大地震の影響はいかがでしょうか?

東北・関東・信越と大地震があいついで発生しています。

ご愛読いただいている皆様の被害状況はいかがでしょうか?

被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

当方の事務所も、落下物が散乱しており、整理におわれております。

次章を始める前に、暫らく時間をいただきます。

とりあえず、近況をお知らせします。    平享亭主人

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2011年3月10日 (木)

龍馬よりも田沼が必要!

5章に入る前に、このブログの意図をもう一度、振り返っておきましょう。序章の文頭で述べましたが、基本的なスタンスは「今の日本には、竜馬よりも田沼が必要!」ということです。そこで、もう一度、序章の要約をしておきます。

坂本龍馬の再来を望む声が高まっています。現代日本を幕末に見立てて、「平成維新」とか「第三の開国」論を主張する人も増えています。

だが、これらの意見はいずれも的外れです。なぜかといえば、現代の日本は、人口が増加から減少へ向かう時期に当っているからです。

 これに対して、幕末の日本は人口が微増から急増へと向かう時期です。これはまさに正反対の位置ということになります。

幕末期とは、西欧文明の導入で人口の増加見通しが広がり、現状維持の生活に慣れた人々も、将来に向けて明るい見通し持ち始めた時代です。

ところが、現代日本は飽和状態です。国民の多くが各々の膨らみきった生活願望をほとんど満足させ、これ以上生活水準が上昇していけば、間もなく資源不足や環境悪化を招くことを強く自覚するようになっています。

とすれば、今、求められるリーダーは、もはや成長・拡大をめざす龍馬や西郷ではありえません。従来の成長・拡大社会への愛着を振り切って、あえて飽和・濃縮社会へ向かおうとする徳川吉宗、あるいは田沼意次なのです。

長期的な歴史観からみると、21世紀の日本が向かおうとしているのは、人口増加=成長・拡大社会ではなく、人口減少=飽和・濃縮社会です。

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2011年3月 9日 (水)

田沼政策・3つの利点

田沼政権が取り組んだのも、やはりこうした課題でした。

 江戸時代中期の社会では、石高経済という再配分制度と、家族・親族や村落・町内などの相互扶助という互酬制度の、2つの社会制度が機能しているだけで、すでに伸びはじめていた商業や市場という交換制度は、なお未公認の状態でした。

このアンバランスを解消するため、田沼政権は、商品経済や金融経済など交換・市場制度を積極的に公認することで、再配分制度と互酬制度との間に、新たなバランスを作り出していきます。

 農村においては豪農の再編成を通じて商品生産を掌握し、都市においては座・株・仲間・会所などの許認可で商品の生産・流通を把握するとともに、それぞれに対して冥加・運上金の徴収という、新たな税源を育成したのです。

そのうえで、交換・市場制度を育成するために、新田開発、印旛沼開発、蝦夷地開発計画などで農地の再拡大をめざすとともに、鉱業、朝鮮人参、白砂糖、輸入品の国産化など、次の時代を担う、新たな産業の振興をめざしました。あるいは衰退状態であった長崎貿易で金や銀の輸入を増やしたり、その対価となる銅や俵物の生産を拡大しました。

こうした諸政策は、かなり大胆で画期的なものでしたが、それでもなお、かなりの進展を見せた背景には、次の3つの利点があったからでした。

1つは、その発想や政策が、従来の常識や通念を根本からひっくり返ものであったことです。石高経済からの脱出や商業資本の導入といった政策は、それ以前にも生まれていましたが、幕府の政策に実際に導入したのは、田沼が初めてでした。

2つめは、勘定奉行所の官僚を巧みに操縦したことです。勘定奉行所は財政、経済、司法を担う事務方役人の勤める役所ですが、それがゆえに能力如何によっては、下級官僚から昇進して、勘定吟味役や勘定奉行にまで上り詰めることが可能でした。

 明和~天明期のような、財政が悪化した時代には、複雑で難解な財務運営を求められますから、経理の才、功利の才に長けた役人が頭角を現してきます。意次はそうした役人を、身分の上下を問わず、積極的に活用することで、斬新な政策を推進しました。

3つめは、豪農や豪商からの積極的な献策を取り上げたことです。新たな税収源として、冥加・運上金制度を新設しましたが、その対象となった団体のほとんどは、幕府の指定ではなく、豪農や豪商など農民・町人層からの献策によったものでした。意次は、財政改善のためのアイデアもまた、幕府の内部にこだわらず、広く全国民に求めたのです。

このような卓越した発想力と統治能力こそ、田沼時代という、前例なき時代を創り出した原動力だったといえるでしょう。



(4章を終わります。ご意見、ご感想があれば、コメント欄へどうぞ)

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2011年3月 8日 (火)

制約社会に対応する

田沼政権が実施した主要政策で生み出された社会は、およそ以上のようなものです。

それゆえ、従来の社会・経済史などでは、年貢米払い下げ価格を基準とする石高経済体制に中に、折から勃興してきた商品経済を取り入れるという、いわゆる「重商主義」だった、と位置づけられています。

しかし、より長期的にみると、それらは、幕府財政の改善という、短期的な目標を超えて、集約農業文明による人口容量が限界に達した状況の中で、それに適応した、望ましい社会構造をいかに作り出すか、というものでした。

望ましい社会構造とは、どういうものでしょうか。それは多分、文明・技術や社会・経済が変わる中で、伝統的な文化や習俗などを守りつつ、新たな制度や体制をどのように組み立てていくか、ということではないでしょうか。

経済人類学者のK・ポランニーはその著『大転換』のなかで、社会を統合する制度には、互酬(義務的な贈与関係や相互扶助関係)、再配分(権力への義務的支払いと権力からの払い戻し)、交換(市場における財の移動=市場経済)の3つがあると指摘しています。

 この視点にたてば、望ましい社会制度とは、互酬、再配分、交換の3つの制度がほどよくバランスしている社会ということになるでしょう。

それは、家族や集落の相互扶助だけに頼る互酬中心社会、社会主義国家や福祉国家のような再配分至上社会、企業や経営者だけが闊歩する市場経済社会のいずれの方向にも、1つだけに偏るのではなく、3つの制度を3つとも存続させながら、それぞれのバランスをとっていく。あるいは、移りゆく時代の変化に応じて、それぞれの内容を変換していことを意味しています。

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2011年3月 7日 (月)

濃縮社会が生まれた

以上で見てきたように、田沼政権の諸政策は大胆な発想転換の下に展開されていますが、それゆえに必ずしも成功している訳ではなく、失敗もまた重なっています。

にもかかわらず、明和~天明期(1764~88)の20数年間は、延享~宝暦期の不機嫌な時代を脱して、庶民が豊かな暮らしを楽しみ、文化や芸術が充実する社会になりました。その意味では、縮みながらも濃くなる、いわゆる「濃縮社会」の典型といえるでしょう。

明和~天明期には、商品経済の拡大で庶民の暮らしも大きく変わり、新たな消費や文化が生まれましたが、こうした動きに田沼政権はあえて統制を行なわず、むしろ自由放任政策をとりましたから、芝居、遊興、風俗から学問、文芸、美術まで、まことに多彩な社会現象が展開されています。

江戸の町には、従来の上方文化に代わって、新しい江戸文化が興隆しました。その先頭に立ったのが、先に述べた「十八大通」です。遊里や芝居小屋のパトロンになって、髪形、言葉使い、所作などでも「蔵前風」とよばれる、独自の様式を創り上げ、「江戸っ子」「通」「いき」という言葉を広めました。

大通の1人、大口屋治兵衛暁雨は、江戸っ子の象徴「花川戸助六」に自らを擬して、吉原で豪放な大尽ぶりをみせつけ、2代目市川団十郎の支援者となって、舞台上の助六に自らの衣装や所作をまねさせました。黒羽二重の無地の小袖に紅絹裏、浅葱の襦袢、綾織の帯、鮫鞘の刀に桐の下駄という、まことに〝いき〟なものでしたが、これはそのまま現代の歌舞伎に引き継がれています。

こうした風潮に乗って、新たな風俗や衣装が生まれました。衣類・装飾品では、女性向けの青紙で張った日傘、丁子茶色、花簪し、木綿浴衣の藍がえし、富三染中形の浴衣、鯨帯、女芸者の振袖など、男性向けの夏合羽、表無地裏模様、細身脇差、丈短の蝙蝠羽織、大坂人形遣い風の長丈羽織などが流行しました。

食べ物では、土平飴、阿多福餅、大福餅、大仏餅、浅草餅、いくよ餅、軽焼、蕎麦切、船切、酒中花、しっぽく、生簀鯉、麩、あは雪なら茶、煎餅、塩瀬饅頭、色紙豆腐、芝三官飴などに人気が集まりました。

 外食・料理屋も増加し、寄り合い茶屋では浅草の並木富士屋、深川の西之宮、洲崎の望汰欄など、料理茶屋では葛西太郎、大黒屋、武蔵屋、枡屋など、麹町獣屋、屋台見世としてすし、蕎麦、おでん、燗酒、てんぷら、鰻の蒲焼を扱う店が出現しました。

流行歌では、江戸節、河東節、長唄新内節などが、さらに新たな遊びとして、伊勢お蔭参り、投扇、投壷、二挺鼓なども流行しました。つまり、当時の町人文化は、表面的な華麗さを「野暮」とみなし、裏側の抑えられた趣向を「粋(すい)」「通」「いき」として尊ぶ、成熟した美意識に裏付けられたものでした。

この成熟した美意識がさらに優れた絹織物、陶磁器、漆器、細工物、印籠・根付などの消費文化を生み出していきます。

 新たな消費文化の拡大は当然、江戸経済にも好況をもたらしました。その成果を積極的に活用して、赤字に悩んでいた幕府財政を10数年にわたって黒字に変えていったのが、卓抜した指導者、田沼意次だったのです。

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2011年3月 4日 (金)

第十政策=都市・町人を救済する(その2)

(第十政策の続き)

一方、このころから、旗本・御家人向けの蔵米を担保にした高利の貸付で財をなし、豪奢な暮らしぶりを誇る札差が台頭してきました。

 享保9年(1724)株仲間が認許され、安永7年(1778)に江戸市中で109軒に限定されたころから急速に成長しました。札差の貸付利子率は年18%程度で、市中の質屋等より安かったのですが、さまざまな不正利殖で利潤を増やしたからです。

 安永・天明期(1772~89)になると、江戸豪商の典型といわれるようになり、18人の大通人、つまり「十八大通」と称される、蔵前風の豪勢な風俗まで生み出します。その札差仲間に対しても、幕府は安永8年(1779)6月、1万両を貸付けています。

しかし、天明期に入って飢饉が続発するようになると、米価も一転して上昇しましたから、江戸や大坂などの大都市では困窮する町人や無宿人が増加してきます。これに対して、田沼政権は、治安の維持とともに窮民の救済を実施しています。

 天明4年(1784)4月には米の売り惜しみを禁じる一方で、徒党・打ち壊し禁止令を出し、天明6年(1786)には、江戸の困窮者に対して、救米6万俵と救金5万両を出しています。

 また安永7年(1778)4月から、江戸府内の無宿者を捕らえて、佐渡鉱山へ送っていましたが、天明4年(1784)になると、米価高騰で流民が急増したため、深川に6万坪の無宿小屋に作って収容しました。ところが、人減らしから奉公人の解雇が相次いだため、この小屋は充満し、疫病も加わって死者が発生するほどでした。

 そこで同年、穢多・非人頭・弾左衛門の囲内(浅草新町)に介抱小屋を設置し、無宿行き倒れ人722人を収容しました。これらの政策は、寛政2年(1790)、「鬼平」こと長谷川平蔵の建議で開設された「佃島人足寄場」に継承されていきます。

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2011年3月 3日 (木)

第十政策=都市・町人を救済する(その1)

第十は都市や町人への金融・救済対策でした。


 商品経済の発展に伴って、江戸や大坂などの大都市では、新たな豪商が生まれ、新たな消費文化が生れましたが、その一方で、社会の変化に追いつけない困窮町民もまた増加し、米価高騰の折にはしばしば打毀しを起こしていました。

これに対して、田沼政権はまずは町人への金融政策で対応しました。宝暦10年(1760)3月、大坂の町人3名の申請を受けて、石町に庶民を対象とする金融機関「銭小貸会所」を設置しました。

 貸付対象は北組・南組・天満組と大坂近在の町人や百姓で、銭5貫文までを90日に限って融通し、利子は元金1貫文につき月23文、うち15文を金主、8文を会所に配分しました。当初は順調に運営されましたが、会所経営者の不正、銭相場の下落、返済滞りの増加などにより、天明8年(1788)に廃止されました。

さらに明和8年(1771)、幕府は町民向けの小口融資を仲介する機関として、大坂に「銀小貸会所」を認可し、同年12月には江戸の町民に対して5万両を年1割の利子で、安永5年(1776))2月には町年寄に対して2万両を年1割の利子で、6月には町人に対して1460両を同じ利子で、それぞれ貸付けています。

また明和4年(1767)閏9月、幕府は大坂に「家質会所」3カ所を認可しました。幕府の認可を受けて、家屋敷を質物(家質)とする貸借証文を保証する「奥印」を押し、銀1貫目につき1カ月銀2匁ずつを、貸方・借方の両方から受け取ったうえ、会所自体も貸付業務も行いました。

 さらにこの会所を発展させて、同年12月には、江戸町人の申請で大坂市中に「家質奥印差配所」を設置しました。家屋敷・諸株を質物とする金銀貸借証文にはすべて差配所の奥印が必要であるとして、世話料は銀100匁につき貸方4分、借方6分の、合わせて銀1匁を半年毎の証文書換え時に徴収するというものでした。

この背景には、生産者・仲買人の間で前渡し金による仕入れ方法が拡大し、回転資金として家質が浮上したこと、激増する金銀訴訟への対応が求められたこと、さらには田沼政権による冥加金増徴政策が重なっていました。

 しかし、貸借利子に世話料が加算されて負担が重くなるうえ、借金額の公示で信用が傷つきましたから、大坂町人の間から激しい反発が起き、翌年1月には関係者宅50~60軒が破壊される騒動となったため、紆余曲折を経て、安永4年(1775)8月に廃止されています。(続く)

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2011年3月 2日 (水)

第9政策=農村・農民を救済する

第9は農村や農民の救済対策でした。

 宝暦・明和期(1751~1771)になっても、農村では享保期以来の百姓一揆が依然として続いていましたが、その目標は多様化し、従来からの年貢減免に加えて、折から拡大してきた商品物資の、生産や流通に関する統制・独占への反対騒動や、村役人の地位をめぐって旧村役人、村方地主、一般農民が対立する村方騒動も急増しました。

これに対して、田沼政権の採った政策は、積極的な救済というよりも、消極的な抑圧でした。宝暦12年(1762)5月には、百姓が江戸に集合したり門訴を行なうことを厳禁する布告を出しています。商品経済を推進しようとする意次にとって、農村・農民対策は後回であったと思われます。

しかし、明和元年(1764)8月、幕府は中山道の伝馬助郷役不足対策と、翌年に迫った日光東照宮百50回忌の交通量増大対策として、武蔵、上野、信濃の28宿の村々に対し、増助郷課役の方針を打ち出したところ、閏12月に百姓20万人以上が蜂起し、江戸時代最大の一揆「伝馬騒動」へ発展しました。

 幕府は江戸の諸門を固めて防衛体制を強化したうえ、関東郡代に命じて増助郷の中止を触れさせて、なんとか一揆を鎮圧したうえで、主謀者の村名主を獄門に、百姓369人を処罰しました。

また明和5年(1768)に大坂や佐渡で一揆が起きたため、明和6年(1769)正月に、関西の百姓の徒党強訴には実力で鎮圧することを命じ、2月には遠国の百姓の徒党強訴は、いかなる要求でも受理せず処罰することを決めました。

 さらに明和7年(1770)2月になると、諸大名・旗本に対して、百姓の徒党強訴を強硬に取り締まるように命じ、4月には諸国に徒党強訴・逃散禁止の高札を掲げて、訴人には賞金銀百枚を与える旨を布告しています。

このような事情で荒廃する農村では、人口もまた減少しましたから、幕府は明和2年(1765)10月に間引き禁止令を出し、また安永6年(1777)に百姓の江戸出稼ぎを禁じたうえ、新田開発を促しています。

だが、安永・天明期(1772~1788)になると、世界的な異常気象で旱魃、洪水、噴火、冷夏などが続きました。とりわけ、天明3年(1783)3月の岩木山噴火、7月の浅間山噴火で東日本各地に火山灰が積もり、日射量の低下で冷害も拡大し、天明4年(1784)には各地で飢饉が広がりました。

 米の栽培よりも利益の高い商品作物を栽培する農家が増加し、米は他地域から購入する農村も増えていましたから、凶作となると、その被害が増幅されたのです。

そこで、幕府は農村救済対策として、天領の年貢率を下げ、宝暦・明和期の39~37%から、安永期には34%台、天明期には33%台へ落としました。

 また天明4年(1784)7月には、関東郡代伊奈半左衛門に命じて、武蔵・下総一帯に御救米を配らせています。さらに天明6年(1786)には、被害の多かった東日本の18藩に、飢饉対策として数万両の拝借金を貸与しました。

こうした混乱の中で、天明6年の秋、意次は失脚しましたが、大飢饉は村から町へと広がって、天明7年(1787)になると、諸国で米騒動が勃発しました。

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2011年3月 1日 (火)

第8政策=大名・旗本を支援する

第8は石高経済が破綻する中で、窮地に陥った大名や旗本を救済する諸政策です。

ここでも田沼政権は伝統的な支援方法を捨てて、商人層の活用を進めました。

明和8年(1771)4月、幕府は5カ年の倹約令を発するとともに、財政支援のために、大名・旗本などに貸与する拝借金制度を停止しました。

 拝借金とは、領内の凶作、自然災害、火災などで経済的な苦境に陥った大名を救うため、幕府が無利子の年賦返済で貸与するもので、将軍と大名の関係を緊密にする金融制度でした。そうした制度を、倹約を理由に原則として停止し、さらに天明3年(1783)の7カ年倹約令では、全面的に停止しました。

だが、困窮する大名・旗本が増えてきましたので、幕府は拝借金に代えて、天明3年(1783)に新たな御用金政策を打ち出しました。宝暦11年(1761)の御用金令は、大坂の豪商の資金で市中から米を買い上げる米価対策でしたが、天明の御用金令は、大坂豪商の巨額な資金を大名・旗本への金融や幕府の利益に活用するのが目的でした。

この年、大坂町奉行所が豪商に命じた御用金令は14万5000両にのぼりましたが、宝暦とは3つの違がありました。その1つ両替商に出金を命じるだけで、資金は両替商の手元において、公金として大名や旗本に貸し付ける、2つめ幕府が大名や旗本の返済を担保し、両替商の債権を保証する、そして3つめ債務保証によって幕府は3600両の利子収入を得る、というしくみでした。

天明5年(1785)になると、この制度を強化するため、幕府は新たな御用金令を発しました。返済の停滞を避けるために、確実な抵当・担保として大名・旗本領の田畑を設定し、返済が滞った時には、幕府代官が抵当の田畑を管理して、その年貢から金利を確実に返済させる、という強力な保証でした。

 幕府は豪商たちに、大名・旗本領の田畑の年貢を担保にとり、貸した金は元利ともに確実に回収できるから、安心して融資するように説得したのです。

新融資制度では、貸付金の利息が7分、そのうち1分を幕府に上納するので、幕府は最大で6万両を手に入れることができる計画でした。しかし、天明の御用金令に対しては、豪商たちが「貸し渋り」という手法で抵抗したため、発令して1年も経たない、天明6年10月に中止されました。

御用金令が失敗したため、田沼政権は新たな金融政策として、全国御用金令とそれを財源とした貸金会所設立を構想しました。天明6年(1786)6月、幕府は「金詰まりで困っている大名や旗本に融資する」という理由で、全国御用金令を出しました。

諸国の寺社・山伏は、その規模などに応じて最高15両、全国の百姓は持高100石につき銀25匁、全国の町人(地主)は所持する町屋敷の間口1間につき銀3匁を、それぞれ天明6年から5年間、毎年出金せよ、と命じたのです。大坂の豪商に限らず、全国の百姓、町人、寺社に「広く薄く」御用金をかける、という計画でした。

こうして集めた御用金に幕府が資金を加えて大坂に貸金会所を設け、会頭が融資を希望する大名・旗本に年7朱(7パーセント)の金利で貸し付けます。その担保には、大名・旗本が発行した米切手か、あるいは借金額に見あった大名・旗本領の村高をあて、返済が滞った場合には、米切手を換金するか、それらの領地を幕府の代官が管理して年貢で返済する、という方式でした。

 年利7朱はかなり低利ですが、返済不能の場合も確実に元利を回収できるしくみになっていましたから、貸金会所はいわば大名・旗本向けの幕府銀行といえるものでした。

2つの計画がうまくいけば、70万両を超える金額が集まる見込みでした。だが、これについても全国民からの猛烈な反発にあって、わずか2カ月足らずの8月24日に中止されました。

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