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2011年5月

2011年5月24日 (火)

再び人口増加社会へ

以上のように、工業後波を支える3つの要素は、これまでの粗放科学技術、粗放市場経済、無制約国際化から、集約科学技術、集約市場経済、選択的国際化へと転換されていきます。

 こうした転換によって、おそらく次の工業文明は従来の粗暴な次元を乗り越え、より成熟し洗練された科学技術、経済制度、国際関係へ進んでいくものと思われます。

これこそ「粗放工業文明から集約工業文明へ」、あるいは「工業前波から工業後波へ」の移行を意味しています。これまでの工業前波は工業文明の前半にすぎず、工業後波の開始に伴って、より成熟し、より完成された段階に入っていくということです。

こうした集約工業文明を、日本人の手で21世紀の中ごろまでに生みだすことができれば、21世紀後半の人口容量は再び拡大し、それにともなって日本の総人口も再び増加しはじめ、1億2800万人の壁を易々と乗り超えていくでしょう。

勿論、そのインパクトは日本に留まるものではありません。日本人が新たな文明の可能性を見つけだすことができれば、それは同時に、世界の総人口が80~90億人の壁を突破し、再び上昇をはじめることを意味しているからです。

こうした意味でも、工業前波の最先端を突っ走っている日本は、21世紀の最先進国として、まっさきに次の波動を作りだす役割を担っているのです。

以上で「平成享保のゆくえ」を、とりあえず終わります。ご愛読、ありがとうございました。別の形で、新コラムをはじめたいと思います。しばらくお待ち下さい。

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2011年5月23日 (月)

集約工業文明の3要素

こうした視点に立つと、集約工業文明とそれに基盤をおく工業後波のおおまかなイメージが見えてきます。おそらくそれは工業前波を支えていた科学技術、市場経済制度、国際協調主義(グローバル化)の3つを大きく変えていくことになるでしょう。

その方向を大胆に見通せば、「粗放科学技術から集約科学技術へ」、「粗放市場経済から集約市場経済へ」、「無制約国際化から選択的国際化へ」という変化に集約できます。

「粗放科学技術から集約科学技術へ」とは、科学技術の本質が変わっていくことを意味します。先に述べたように、現代の科学技術は、鉱物や化石燃料を〝爆発〟させてエネルギーを獲得するという〝粗暴〟な基盤に基づいています。

 パソコンやインターネットなどのソフトな技術でさえ、爆発エネルギーが提供する電力が途絶えれば、直ちに停止してしまいます。それゆえ、次の文明を支える科学技術は、もっと緩やかに抽出できるエネルギー源に基礎をおかなければなりません。

この方向を実現するにはさまざまな対応が考えられますが、太陽光、風力、水力、地熱などのエネルギーを直接採集して集約する、より「柔らかな」自然系エネルギーへの転換が1つの方向になるでしょう。

 つまり、「宇宙エネルギーが長期的に蓄積された化石燃料などを採集・消費する」文明をさらに進展させて、「採集圏域を増やして、化石燃料などをより効率よく採集するとともに、エネルギーの集約や育成を図る」文明へと転換していくということです。

「粗放市場経済から集約市場経済へ」とは、経済構造がより進化していくことです。現在の市場主義は、グローバル市場主義の乱暴な介入に国内経済が引っかき回されたり、競争激化によって貧富の格差が拡大するなど、いわば「粗暴な市場経済」の次元に留まっています。

 おそらく工業後波を支える経済制度はこうした欠陥を是正して、国際性と国内性の調和、市場性と象徴性の調和、そして価値と効能(私的有用性)のバランスなどに配慮した、より「柔らかな」体制をめざすことになるでしょう。

「無制約国際化から選択的国際化へ」とは、国際協調主義の方向が変わっていくことを意味しています。これまでの国際主義は、一国の国境を絶対視しつつ、そのうえでどの国とも平等につきあうという、いわば「粗っぽい国際主義」でしました。

 しかし、今後はその方向が微妙に修正されていきます。先に述べたように、21世紀の地球では人口が爆発的に増加して、2020~2030年ころには食糧・資源・エネルギーが不足し、環境汚染も深刻化します。

 このため、先進国、途上国を問わず、世界各地で物資の奪い合いや環境汚染のなすり合いなど、さまざまなパニックの発生するおそれが急速に高まります。

そこで、日本もまた、従来の野放図な全面的国際化を修正し、農業国との連携や資源保有国とのタイアップなど、互いに援助しあえる国々との間で、新たな連携をめざす選択的国際化を進めることが必要になってきます。

 その意味で、日本の外交目標は「無制約国際化から選択的国際へ」と転換していかなければなりません。

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2011年5月20日 (金)

次期文明を展望する(その2)

こうした傾向が今後も続くと仮定すれば、次の文明の方向をある程度予想することができます。それは、現在の工業文明の延長線上に現れる、より高度な工業文明、いわば後期工業文明とでも名づけられる文明の創造です。

現在の工業文明が前期と後期に分かれ、前期工業文明を引き継いだ形で、後期工業文明が新たに登場してくる。江戸後期に西欧から導入した前期工業文明を、国内でさらに継承・発展させて、もう1段階上の後期工業文明を創りだすといってもいいでしょう。

農業文明の発展過程になぞらえれば、前期の「粗放工業文明」から、後期はもう1段上の「集約工業文明」に移行していく。人口波動でいえば、工業現波が前波と後波に分れ、現在の波は粗放工業文明による「工業前波」、次の波動は集約工業文明による「工業後波」になっていく、ということです。

考えてみると、これまでの工業文明は〝粗放〟ならぬ〝粗暴〟文明でした。自動車が衝突したり、飛行機が落下すれば、人間もまた死んでしまうという、まことに「粗暴な技術」で成り立っています。

 エネルギー利用もまた、石油やウラン燃料を〝爆発〟させて採取するという「粗暴さ」に基づいています。経済構造ですら、グローバル資本主義の乱暴な行動に引っかき回されるという「粗暴な経済」の次元でした。

とすれば、次の集約工業文明は、この粗暴な次元を乗り越えて、より優雅な技術や経済の段階へ進んでいかなくてはなりません。

 これまでにも独自の新石器文明や集約農業文明を生みだしてきた日本人の資質を考えれば、欧米型の粗放工業文明をさらに改良して、より高度な集約工業文明を創りだす可能性は限りなく高いはずです。

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2011年5月19日 (木)

次期文明を展望する(その1)

農業後波の下降期を参考にすると、工業現波の今後がおぼろげながら見えてきます。

 6章では、2020年代以降の「平成明天」時代に、加工貿易体制による人口容量は徹底的に見直され、人口減少に見合った濃縮社会へ移行していくと述べてきましたが、その後の日本はどうなるのでしょうか。

もし人口を再び増加させようとすれば、21世紀の中葉から後半にかけて、人口容量をさらに拡大するような画期的な文明転換を、日本列島の上で起さなくてはなりません。

 人口容量とは〔自然容量×文明〕ですから、新たな容量を構築するには、新たな文明の創出が必要です。もしそれができれば、工業現波に変わる、新しい人口波動が開始され、その上限はおそらく現代の1億2800万人を超えて、2倍から数倍に達するでしょう。

新たな文明とはどのようなものになるか、人口波動説からみると、おおまかな方向が見えてきます。これまで人類が辿ってきた5つの波動を振り返ってみると、文明の進展には一定の法則がある、という推測が成り立つからです。それは次の3つです。

(1)世界波動においても日本波動においても、石器前波と石器後波、農業前波と農業後波というように、2つの波動がペアになっている。

(2)波動を支える文明も「旧石器文明から新石器文明へ」、「粗放農業文明から集約農業文明へ」と、継承・発展の関係を持っている。

(3)日本列島では、旧石器文明や粗放農業文明を大陸から受け入れ、次にくる新石器文明や集約農業文明を内発的に創造している。このことは、基盤となる石器文明や農業文明が、海外から渡来したものであることを示している。

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2011年5月18日 (水)

農業後波から工業現波へ(その2)

しかし、この動揺と停滞がやがて文化や学問を深化させました。享保期以降、約100年の間に医療や生産に役立つ実用の学問を求めて、いわゆる蘭学が興隆し、医学、物理学、化学から天文学や地理学、あるいは和算学や物産学にまで広く普及しました。

天保期になると、こうした西欧的知識を応用して、薩摩や長州といった「雄藩」では、手工業(マニュファクチャー)を急速に発達させ、その利益によって藩財政の改革にも成功し、次第に幕府を凌ぐ経済・軍事力を蓄えていきます。ここに見られる工業化の発想こそ、集約農業文明を突破して、次の工業現波を始動させる原動力となったものでした。

人口容量が拡大する見通しが出てくると、減少し続けていた人口も徐々に増加しはじめ、天保元年(1830)前後には3263万人と農業後波のピークを超えて、明治維新(1868)前後には3540万人へ達します。

折しも嘉永6年(1853)、M・ペリー提督が率いる、アメリカ合衆国の艦隊が浦賀に来航して開国を迫ったため、幕府は翌年、日米和親条約を締結し、「開国」に踏み切りました。

 しかし、条約締結に反対する勢力が拡大したため、大老・井伊直弼は安政6年(1859)、安政の大獄を断行して厳しくに弾圧しました。が、それが祟って、井伊は翌年3月、桜田門外の変で暗殺されます。

幕府が弱体化し、薩摩や長州など西南雄藩の勢力が強まったため、慶応3年(1867)10月、15代将軍・徳川慶喜が大政を奉還し、12月には朝廷が王政復古を宣言して、いわゆる「明治維新」が達成されました。

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2011年5月17日 (火)

農業後波から工業現波へ(その1)

江戸時代の中~後期は、農業後波の下降期でした。この時代には、田沼意次が失脚した後、天明7年(1787)、吉宗の孫で奥州白河藩主の松平定信が老中首座に就き、翌年から「寛政の改革」(1799~93)を主導しました。

 田沼の重商主義を真っ向から否定して、質素倹約を旨とする緊縮政策を打ち出しましたから、深刻な財政危機はひとまず回避されたものの、商人、町民層の景気は消沈し、武士層からも不評が高まったため、寛政5年(1793)、定信は老中を解任されました。

代わって幕政の実権を握った11代将軍・徳川家斉は、文化・文政期から天保初期までの約40年間(1804~41)、いわゆる「化政時代」を作り出します。

 華美・驕奢な大奥生活に象徴されるように、爛熟・頽廃の世相は極みに達し、町民層の消費も拡大しました。だが、側近政治の拡大や政治の私物化で腐敗が進行し、歳入は増えたにも関わらず、財政は再び悪化し、物価の高騰や銭相場の下落で庶民生活も苦しくなりました。

このため、天保12年(1841)に家斉が没すると、老中・水野忠邦は直ちに「天保の改革」を実施して、財政再建に乗り出しました。

 だが、改革の基本は質素倹約と規制強化でしたから、再び経済は不況に陥りました。諸政策の中でも、幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙った上知令は極めて意欲的なものでしたが、武士から農民に至る広い層からの猛反対で頓挫し、忠邦自身もわずか3年で失脚しました。

以上のように、農業後波の下降期には、政権が小刻みに揺れ動き、経済政策でも、田沼時代の商業重視(約14年)、「寛政の改革」時の商業規制(約6年)、化政期の消費拡大(約41年)、「天保の改革」時の倹約強化(約3年)と、緩和と倹約が繰り返されています

 経済の基盤である米作が限界化している以上、奢侈や浪費を抑えて、簡素な生活に適応しなければなりませんが、そればかりだと、庶民大衆の不満が募ってきますから、時にはタガを緩めることも必要でした。そこで、倹約と緩和が交互に実施されたのです。

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2011年5月16日 (月)

加工貿易体制を見直す

以上のように見てくると、2020年代の日本において、新田沼政権が取り組んだのは、加工貿易体制の限界化という、人口容量の制約を改めて見直して、いかに最適な社会を創り出すか、という課題であった、ともいえるでしょう。

 この体制は、科学技術、市場経済制度、グローバル化の3つの要素によって支えられていますが、その1つひとつを最適化する方法を、より広い視点から再検討したのだ、といってもいいでしょう。

科学技術については、モノとしての進化を超えて、コト=情報としての進展を重視し、市場経済制度については、それが切り捨ててきた象徴制度を改めて復活させ、両者の並立によって、社会や経済を安定化させようとしました。

 そして、グローバル化についても、素朴なグローバル化信仰を脱して、利害得失を徹底的に考慮した、選択的グローバル化へと、外交の舵を切り替えています。

その結果、新田沼政権は、加工貿易国家を成熟させることによって、経済と生活、生産と消費、文明と文化、トップとボトムのバランスの取れた、近代工業文明国家の完成をめざしました。

 一言でいえば、それは「ラストモダン」社会の構築でした。近代の後にくる「ポストモダン」へ向かうのではなく、近代を完成させる「ファイナルモダン」へと進んでいったのです。

もっとも、その全てが達成されたのではなく、目的半ばで頓挫したものも少なくありません。2020年代後半になると、天明期(1781~88)以来の太陽活動の低調化による寒冷化火山の爆発大地震など、さまざまな自然災害が多発するようなり、それぞれへの対応に追われて、政策推進力が滞り、リーダーシップも衰えていったからです。

しかし、新田沼政権が火をつけたラストモダンは、もはや後戻りすることはなく、文化を成熟させ、情報化を深化させていきます。そうなると、工業現波を支えてきた、従来の世界観が次第に革新され、やがて次の波動を生みだす、新たな世界観が生まれてきます。

 そして、その世界観が資源やエネルギーの新しいつかみ方や使い方を見つけだした時、21世紀後半の日本は、さらに世界は、新たな人口波動に向かって再び動きだすとになります。

その世界観とはどのようなものなのか、その波動とはいかなるものになるのか、これについては、次の6章でざっと展望してみましょう。

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2011年5月13日 (金)

文化とアートの時代へ(その2)

第2は濃縮化。従来の拡大志向に対して、2010年代の生活様式では濃縮志向が強まりました。

 江戸中期の濃縮志向は、最終的には印籠や根付といった、極小の文化を生み出しましたが、21世紀の日本でも、印籠は携帯電話に、根付はストラップに、それぞれ変身していました。

この延長線上で、エレクトロニクスを応用した極小坪庭、バイオテクノロジーを応用した新華道、ナノテクノロジーによる超小型図書館など、拡大化よりも極小化をめざす新技術が進展し、新たな機能を持った商品を創り出すとともに、感性の革命を引き起こすようなミニマムアートを生み出しました。

第3は深層化。人口減少期の文化は、ルネサンス後期や明和~天明文化に見られるように、表面的な美しさよりも心の深層の潜む、葛藤や静けの方へ、より関心を移していきます。人口容量の制約が強まる以上、外部への拡大よりも自らの内部への深化の方に関心を移していくからです。

すでに2010年代から、サブカルチャーの世界では、宮崎駿のアニメ映画『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』など、あるいはコミックやゲームの世界でも、古くからの神話、伝説、昔話、お伽話などを積極的に活用した作品が増加し、すでにいくつかのヒット商品も生まれていました。

これらの背後にあるのは、C・G・ユングの指摘した集合的無意識への回帰です。集合的無意識とは、1人ひとりの個人を超えて、日本人とか中国人とかいった集団の心の底に潜んでいる無意識的な願望のことです。通常は意識されていませんが、夢や神話やおとぎ話などの形をとって、不意に私たちの前に現れてきます。

2020年代には、このような深層文化がいっそう拡大し、精神分析や宗教的方法、五感や六感を解放する手法など、いわゆる深層心理的な次元にまで広がって、日本の文化状況を色濃く彩るようになりました。

 以上のように、2020年代の文化やアートでは、爛熟化、濃縮化、深層化といったトレンドが浮上してきました。3つのトレンドこそ、人口減少が定着していく時代を象徴する、最も基本的な感性であった、といえるでしょう。

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2011年5月12日 (木)

文化とアートの時代へ(その1)

以上で見てきたように、新田沼政権の諸政策は、従来の社会・経済政策の常識を超えた、大胆な発想の下に展開されました。

 これによって、「平成明天」あるいは「新元明天」の日本は、平成前半の不機嫌な時代をなんとか脱して、同じように人口減少期であった平安期や江戸中期に匹敵するような、豊穣な文化を開花させました。
この時代には、さまざまな文化や新たなアートが生まれましたが、特に強まったのは3つのトレンドでした。

第1はいうまでもなく爛熟化。爛熟化というと、華麗で頽廃的なムードを思い浮かべがちですが、現代文化についていえば、科学技術文明の最先端を遊びやアートなどに応用していくことでした。

 例えば、家電やパソコンに代表される生産技術を、利便性や快適性といった本来の目的を超えて、新たな遊び道具に変えたり、その延長線上で新奇なアートに昇華していったのです。

こうした傾向は21世紀の初頭からはじまっており、IT技術は「ニンテンドーDS」や「Wii Fit」のような遊具を生み出して、家電商店街であった秋葉原を、日本一のホビー街、否、世界一のホビーカルチャーのに変貌させました。

 また若者文化には、コミック、アニメーション、ゲームの、 “コアゲ”文化ともいうべきものが広がって、アートの世界にも強く影響を与えました。現代アートの最先端に立った草間弥生、奈良美智、村上隆といったアーティストたちは、コアゲ文化の表現手法を積極的に取り入れて、幼さ、カワイイ、萌えといった心象風景を作品化し、国際的にも大きな注目を集めました。

かくして、21世紀の日本文化は、20世紀以来のコアゲ文化を継承しつつ、さらにIT技術を駆使して、日本の伝統や精神を再現することにより、日本発のネオ・ポップ・カルチャーとして育っていきました。

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2011年5月11日 (水)

第10政策=都市・市民の暮らしを再構築する(その2)

第2の対策は、中心商店街の再生でした。人口の都心・市心回帰に伴って、衰退の一途を辿ってきた中心商店街にも復活のチャンスが巡ってきました。

 戻ってきた市民の多くは、大量のものを週間単位で買いだめするより、新鮮なものを毎日少量買う傾向を強めていました。また急増する老年層では、郊外の大店舗へ車で行くより、交通の便のよい駅の周辺や中心部で商品を購入する顧客が増加していました。

こうした需要に的確な対応をすれば、中心商店街も再生できます。そこで、新田沼政権は、ブロックやストリート全体の法人化や協同組合化を促進し、ハード面ではショッピングモール化やショッピングセンター化をめざすとともに、ソフト面では他の商店街と連携した仕入れの共同化や産地農業組合などとの連携策を進めました。

 また個々の商店にも、伝統的な小規模商店としての特性を最大限に活かした〝象徴〟的な戦略を勧めました。例えば永続的な顧客を作る対面販売、きめ細かな仕入れ方式、濃密な人間関係など、大手流通業があえて切り捨ててきた〝商い〟の原点を再構築していったのです。こうした政策によって、都心部の商店街にも再生の可能性が見えてきました。

一方、郊外では人口が急減し、次第に衰退していく地域が目立ってきます。これに対応して、新田沼政権は、新たな郊外都市構想を実現していきました。その中核は、都心・市心通勤者のための住宅都市から、彼らが週末に住み着く週末都市への移行でした。

社会の濃縮化に伴って、ウィークディーは都心部のマンションに住んで仕事をし、週末は郊外の1戸建てで園芸、家庭菜園、スポーツやアートを楽しむというダブルハウジングが急増しました。

 あるいは狭い都心住宅を嫌って、郊外の広い住宅を求める層も増えましたから、既存の共同住宅やアパートメントなどは、複数の部屋を統合して、面積の広い部屋に改造しました。

 さらにはさまざまな家族が一緒に住むシェアードハウジング、1つの家族が複数の住居を利用するプルーラルハウジングなど、さまざまな共同生活も広がりましたから、それに見合うように、既存のストックを有効に活用しました。

 以上のような都心・市心政策や郊外政策は、公的部門だけで実現できたのではありません。地域社会から発生してくる、さまざまな生活需要への対応については、民間企業やNPOなどの私的部門にも、一定の役割分担が期待されました。

 そこで、新田沼政権は、官民の壁を超えた、総合的な対応によって、地域の社会力をあげていったのです。

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2011年5月10日 (火)

第10政策=都市・市民の暮らしを再構築する(その1)

第十は都市やそこに住む市民層への対応でした。

 2020年代には、ほとんどの地域で人口が減っていましたが、東京、大阪、名古屋の中心区域、札幌、仙台、福岡などの地方中枢都市、各県の県庁所在都市については、なおも人口が微増するとともに、都心・市心回帰の流れが強まっていました。これに伴って、一方では都心・市心部の再構築が、他方では郊外の再生が、都市づくりの新たな課題に浮上しました。

都心・市心へは、全国的な人口減少で地価が低下しましたから、それまで郊外へ逃げだしていた市民層が一斉に戻ってきました。彼らは、従来の郊外型を脱して、都心型の新たなライフスタイルを形成しました。

 職住接近ですから、過酷な通勤電車は不要となり、徒歩や自転車通勤が可能となりました。生活と仕事の間にゆとりが生まれ、遊びや学びの時間や空間も増えました。アフターファイブにコンサートや観劇に行っても、20~30分で帰宅できますから、ようやくヨーロッパなみの成熟した暮らが可能になりました。こうした現象は3大都市からはじまって、2020年代には地方中枢都市や県庁所在都市にも広がりました。

そこで、新田沼政権が打ち出した、第1の対策は、地方都市の「コンデンス・シティー」化でした。コンデンスとは「拡大した人口容量を減っていく人口で徹底的に活用する」という理念ですが、都市計画でいえば、「これまでに拡大した都市域を、減っていく人口で限りなく活用し、1人当たりの利用空間をさらに拡大していく」ということでした。


 
長期的な視点に立って、中心市域を一定以上に広げない。都心部への過剰な投資を避けるため、既存のストックをできるだけ再活用する。郊外のストックを活かすため、ダブルハウジングや日曜農業などに利用する、というものです。

 これを実現するため、公共施設から民間施設まで、既存の施設を新たな目的に見合うように、機能やデザインを徹底的に変換し、有効に再利用するためのノウハウやシステムを作り出しました。またそうした転換を都市計画の責任者はもとより、建設業・設備業、さらには流通業にも求めました。

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2011年5月 9日 (月)

第9政策=農山漁村・過疎地を活かす

第9は農山漁村や過疎地への対策でした。2020年代になると、全国各地に点在する村落が、最終的な人口減少過程に入り、消滅の危機に追い込まれました。

こうした危機は、21世紀の初頭から予想されており、2007年には国土交通省が「国土形成計画策定のための集落の状況に関する現況把握調査」を行っています。

 それによると、自治、防災、生活道路の管理、冠婚葬祭などの集落機能が著しく低下した、いわゆる「限界集落」が、全国ですでに約9000を超えており、今後10年以内にさらに約430が加わり、最終的には1万1000を超えるものと予測されていました。

このため、同省では、集落の実態や現状に即した社会的サービスの提供を、地域住民、民間事業者、NPOなど連携して維持するとか、隣接集落との統合や機能的分担などで集落機能を維持・再編等を検討する、あるいは長期的な国土利用・保全の観点から農林水産業の振興、伝統文化や産業の保全、医療・福祉・教育のあり方などを、各省庁が連携して検討する、といった対策を打ち出していました。

しかし、これらの対策はほとんど効果を現さず、その後10数年を経て、過疎地や限界集落はますます増加し、消滅していく村落も急増するようになりました。そこで、新田沼政権は、①最小生活共同体の保存・再生、②伝統・風習・習俗など〝象徴〟制度の維持・保存という、2つの視点から改めて過疎地対策に取り組んでいきました。

第1の政策は、行政機関が中心となって、過疎地や限界集落の近隣に、集落機能が保持可能な地域を設定し、その場所へできるだけ住民を集約することでした。過疎化や老年化がさらに進んでいく以上、行政が責任を持って生活基盤機能を提供していける地域内に、まとまって移住してもらうのが最良の方法と考えたからです。

とはいえ、住み慣れた集落を捨てて他地域へ移り住むのは、住民にとっては忍びがたいものでした。暮らしの利便性や安全性が保障されたとしても、田畑が荒れ、住まいが廃屋になるのは耐えがたく、理性的に理解できたとしても、感情的には抵抗が強まりました。

このため、第2の政策として、過疎地の再利用を推進し、農山漁村の存在価値を再確認する諸政策も展開しました。具体的には、離村住民を中心に、旅行業や教育産業などの民間企業やNPOやボランティア団体などとも連携して、新たな廃村活用組織を設立し、総合的な対策を打ち出していきました。

主な内容は、①不住民家について、山村体験施設、長期休暇用施設など、さまざまな活用法を拡大する、②都会や近隣都市の市民に向けて、ダブルハウジング住居、体験施設、宿泊施設などの利用法を拡大する、③物理的な側面から廃村の保存や空き家の修繕や改築も行うとともに、貸借や売買の双方の対象者に対して、契約・利用条件のアドバイスや履行の保証など、適切な斡旋を行う体制を整える、などでした。

とりわけ体験施設の運営では、伝統的共同体の持つ、さまざまな暮らしのしくみを、児童や学生、あるいは社会人や企業人に追体験させることで、望ましい互酬制度の方向を考えさせる、新たな教育機関として、積極的な意味づけを行いました。

これらの政策によって、新田沼政権は、急拡大していく過疎地問題に1つの方向性を与えっていったのです。

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