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2011年5月18日 (水)

農業後波から工業現波へ(その2)

しかし、この動揺と停滞がやがて文化や学問を深化させました。享保期以降、約100年の間に医療や生産に役立つ実用の学問を求めて、いわゆる蘭学が興隆し、医学、物理学、化学から天文学や地理学、あるいは和算学や物産学にまで広く普及しました。

天保期になると、こうした西欧的知識を応用して、薩摩や長州といった「雄藩」では、手工業(マニュファクチャー)を急速に発達させ、その利益によって藩財政の改革にも成功し、次第に幕府を凌ぐ経済・軍事力を蓄えていきます。ここに見られる工業化の発想こそ、集約農業文明を突破して、次の工業現波を始動させる原動力となったものでした。

人口容量が拡大する見通しが出てくると、減少し続けていた人口も徐々に増加しはじめ、天保元年(1830)前後には3263万人と農業後波のピークを超えて、明治維新(1868)前後には3540万人へ達します。

折しも嘉永6年(1853)、M・ペリー提督が率いる、アメリカ合衆国の艦隊が浦賀に来航して開国を迫ったため、幕府は翌年、日米和親条約を締結し、「開国」に踏み切りました。

 しかし、条約締結に反対する勢力が拡大したため、大老・井伊直弼は安政6年(1859)、安政の大獄を断行して厳しくに弾圧しました。が、それが祟って、井伊は翌年3月、桜田門外の変で暗殺されます。

幕府が弱体化し、薩摩や長州など西南雄藩の勢力が強まったため、慶応3年(1867)10月、15代将軍・徳川慶喜が大政を奉還し、12月には朝廷が王政復古を宣言して、いわゆる「明治維新」が達成されました。

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