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2011年5月17日 (火)

農業後波から工業現波へ(その1)

江戸時代の中~後期は、農業後波の下降期でした。この時代には、田沼意次が失脚した後、天明7年(1787)、吉宗の孫で奥州白河藩主の松平定信が老中首座に就き、翌年から「寛政の改革」(1799~93)を主導しました。

 田沼の重商主義を真っ向から否定して、質素倹約を旨とする緊縮政策を打ち出しましたから、深刻な財政危機はひとまず回避されたものの、商人、町民層の景気は消沈し、武士層からも不評が高まったため、寛政5年(1793)、定信は老中を解任されました。

代わって幕政の実権を握った11代将軍・徳川家斉は、文化・文政期から天保初期までの約40年間(1804~41)、いわゆる「化政時代」を作り出します。

 華美・驕奢な大奥生活に象徴されるように、爛熟・頽廃の世相は極みに達し、町民層の消費も拡大しました。だが、側近政治の拡大や政治の私物化で腐敗が進行し、歳入は増えたにも関わらず、財政は再び悪化し、物価の高騰や銭相場の下落で庶民生活も苦しくなりました。

このため、天保12年(1841)に家斉が没すると、老中・水野忠邦は直ちに「天保の改革」を実施して、財政再建に乗り出しました。

 だが、改革の基本は質素倹約と規制強化でしたから、再び経済は不況に陥りました。諸政策の中でも、幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙った上知令は極めて意欲的なものでしたが、武士から農民に至る広い層からの猛反対で頓挫し、忠邦自身もわずか3年で失脚しました。

以上のように、農業後波の下降期には、政権が小刻みに揺れ動き、経済政策でも、田沼時代の商業重視(約14年)、「寛政の改革」時の商業規制(約6年)、化政期の消費拡大(約41年)、「天保の改革」時の倹約強化(約3年)と、緩和と倹約が繰り返されています

 経済の基盤である米作が限界化している以上、奢侈や浪費を抑えて、簡素な生活に適応しなければなりませんが、そればかりだと、庶民大衆の不満が募ってきますから、時にはタガを緩めることも必要でした。そこで、倹約と緩和が交互に実施されたのです。

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