カテゴリー「1章 享保時代を振り返る」の記事

2011年1月10日 (月)

諸色は上がる

一方、諸色が上がったのは、元禄期以降、生活水準を高めた人々が、新たな需要を求めはじめていたからです。

従来の常識によると、江戸中期の日本では、人口減少や農業生産の鈍化などで、経済もまた〝停滞〟した、といわれてきました。だが、実際に推計してみると、国民1人当たりの生活水準はかなり向上しました。

農民でいえば、1730年以降、農業人口や耕地面積は確かに減少しましたが、それにもかかわらず、農民1人当たりの実収石高は上昇に転じています。1650年前後に1・35石であった1人当たりの実収石高は、1730年前後には1・02石にまで下がっていましたが、ここから上昇に転じ、1750年には1・09石、1800年には1・23石まで上がりました(速水・前傾論文)。

この背景には、先に述べたように、1人当たり耕地面積の拡大や、さまざまな農業技術の改善がありました。さらには農業の余業として加工業収入も増えていますから、実収入はもっと増加していた可能性があります。つまり、人口が減ったにもかかわらず、否、人口が減ったせいで、1人当たりの所得はかなり増えていたのです。

ここまで所得が上がってくると、自給自足を基本としていた農民層もまた、折から拡大してきた貨幣を使用して、干魚、綿布、櫛、簪など新たな選択財を求めるようになります。一旦、自給自足を破ると、さらに貨幣が必要になってきますから、彼らは野菜、綿、菜種、藍、紅花、大麻、養蚕など、商品として売るための生産物を増加させていきます。

他方、町人でいえば、17世紀以降の急速な都市の発展や、それに伴う商工業の拡大で、非農民の都市庶民層が急増しました。城下町や宿場町では、新興の商人や手工業者が増加し、農産物の加工や手工業品の生産や流通を拡大させました。さらに江戸、大坂などの大都市では、呉服商、材木商、米穀商、輸送業者、金融業者などが増加し、経済力を蓄えていきます。また都市の庶民層でも、大工や左官、手工業の職人、屋台や振り売りなどの流通業者などが増加し、衣食住それぞれの需要を拡大していきました。

こうして、諸色、つまり米以外のさまざまな生活物資の需要が急増大しましたが、供給力の拡大は遅れていましたから、物価全体は上昇していきました。物価(1840~44年を100とする京坂一般物価指数)の推移を大まかに辿ると、1730年頃の60から1740年頃には120まで上がっています(宮本又郎「物価とマクロ経済の変動」)。

10年で2倍にも上がった、直接の要因はやはり商品の供給不足でした。だが、もう1つは、幕府が米価の上昇をめざして、元文1年に実施した元文改鋳、つまり貨幣悪鋳が影響したためです。貨幣が瞬時に増加したため、その価値が急落し、諸物価が高騰したのです。これによって、米価も上昇しましたが、諸物価はそれ以上に上がりました。米価高は実現できましたが、諸色安には失敗したのです。

結局のところ、享保という時代は、「米価安の諸色高」というしがらみを解決できないまま、次の時代へ残していきました。

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2011年1月 9日 (日)

米価安のパラドックス

当時の物価には、1720年ころから「米価安の諸色高」という現象が現れていました。基本財である米の価格は低下し、「諸色」つまり「さまざまな物資」の価格が上昇することです。この傾向は19世紀初頭までほぼ一貫して続き、米価が上がると諸色が下がり、米価が下がると諸色が上がるというように、ほぼ逆の関係を示しています。

1730年代に人口がピークになったのは、人口容量の壁にぶつかったためです。集約農業文明の停滞で、農業生産が伸びなくなったことが基本的な要因です。とすれば、供給が不足したわけですから、米価は上昇するはずです。にもかかわらず、米価安になったのはなぜなのでしょう。

一口でいえば、農業の生産性が改善されて米の供給量が維持される一方、人口の停滞で需要量は減少したという、需給両面の変化です。先に述べたように、18世紀に入ると、米の実収石高は17世紀の年間伸び率0・32~0・56%から0・22%へ低下し、耕地面積も年間伸び率が0・26~0・38%から0・15%へほぼ半減しています。

しかし、生産量そのものは減ることなく、むしろ微増しています。この背景には、1人当たり耕地面積の拡大、田畑輪作や二毛作の開始、備中鍬や踏車などの新農機具の開発、干鰯や油粕などの肥料の投入、数百種の稲などの品種改良、綿や菜種など作物の多様化、木綿や生糸など農産加工物の拡大など、農民1人当たり労働生産性を上げるような、農業技術のさまざまな改善があったからです(速見・前掲論文)。

他方、人口の方は、人口容量の制約が強まるにつれて自ずから停滞し、ピークを過ぎても静止状態にはならず、緩やかに減少しました。きっかけとなったのは気候悪化が引き起こした飢饉でしたが、本質的な要因は、人々の間で起こった、直接的あるいは間接的に人口を抑制する、さまざまな行動でした。

直接的な行動は出生抑制です。先に述べたように、元禄期の高度成長を通じて、著しく高い生活水準を経験していた人々は、その水準を維持するために、〝予防的〟に堕胎や間引きに向かっていきました。間接的な行動は大都市の出現です。江戸中期に成熟した江戸や大坂など大都市は、晩婚化や単身化を拡大させ、また衛生環境の悪化で死亡率の上昇や出生率の低下を引き起こしました。

以上のような要因が重なった結果、人口は減りはじめます。一旦減りはじめると、多少の条件緩和では容易には回復せず、なお減少傾向を辿ります。米の供給量が維持された状態で、人口が減り続ければ、需要量も落ちてきますから、供給過剰が強まるにつれて、米価は低下していきます。

米の生産限界で人口が減りはじめたにも関わらず、米価が上昇するというパラドックスの背景には、このような事情が潜んでいます。

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2011年1月 8日 (土)

米将軍・吉宗

これまで述べてきたような社会・経済環境の中で、吉宗が最も強い関心を示し、さまざまな対策を打ち出したのが、米の価格、つまり米相場でした。

人口が減れば、需要は落ちますから、米価も低迷します。石高経済の下で米価が下がれば、財政や庶民生活に直結します。それに気づいた吉宗は、俗に「米将軍」とか「八木将軍」とよばれるほど熱心に米相場に取り組みました。しかし、吉宗の経済政策が拡大する貨幣・商品経済に対応できていなかったため、米価への介入でも試行錯誤を繰り返すことになりました。Photo_2

先に述べたように、米価は1710年前後に130匁まで高騰した後、20年代に入ると40匁まで急落し、30年代半ばまでこの水準を続けています。基本的な要因はやはり米の需給関係にあり、供給よりも需要が多ければ米価が上がり、少なければ下がります。

それゆえ、17世紀の需要増加時代には、価格を抑えるために、幕府は需要減らしに努めました。米の実需を減らすために、4代将軍・家綱の治世の後半から元禄時代にかけては、ほとんど毎年のように酒造を制限する法令も出しています。

また仮需を減らすために、大坂商人の間で拡大した「空米取引」や「延米取引」などの「米の不実商」を取り締まる政策に出ました。5代将軍・綱吉の時代には、違反した商人の全財産を没収した上、本人も追放するという「闕所」処分で応じたほどです。さらに元禄15年(1702)には、酒の値段に5割ほどの金額を上乗せし、その分を「酒運上」として取り立てる方法まで税制まで実施しています。

ところが、享保期に入ると、米価が下がってきましたので、吉宗は一転して米の需要増加をめざしました。享保5年(1720)、まずは米の公定価格を設けて、強引にその水準まで引き上げようとしましたが、その効果はほとんどなく、米価は下がり続けます。そこで、米の需要増加策にも踏み込んで、享保9年(1724)、京都・大坂の町奉行を通じ、米の不実商を緩め、享保13年(1728)には延米取引も公認しました。

さらに享保15年(1730)、大坂・堂島に幕府公認の米市場を設立して延米取引を行わせ、酒造の制限も撤廃しました。また同年には、天領・私領とも生産地に米を蓄えておく「諸藩置米令」を出すとともに、江戸・大坂・京都などの消費地に米を送り込むことを制限する「廻米制限令」も実施して、供給量を調整しています。

しかし、吉宗の相次ぐ努力にも関わらず、米価は依然として低迷したままでした。なぜなら、吉宗はもう一方で、享保改鋳(1714~1736)を実施し、良貨政策を継続していたからです。この政策で貨幣の流通量が急減しており、実需の少ない商品ほどデフレ傾向が進行しました。

元文元年(1736)になって、ようやくそれに気づいた吉宗は、大岡忠相の建議を入れて、元文改鋳で悪鋳に踏み切り、貨幣の流通量を増やしました。この政策の効果は即効的には出ませんでしたが、数年後から米価は徐々に上がりはじめ、1740年代には60~70匁まで回復し、ようやく目的を達しました。

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2011年1月 7日 (金)

半鎖国制度の変質

第3は半鎖国制度の変質です。鎖国下の貿易というと、長崎で細々と続いていた中国・オランダ交易のみを思い浮かべがちですが、これは事実ではありません。16世紀後半から17世紀前半にかけて、日本はアジア最大の産銀国であり、大量の銀が各国商人の手によってアジア各地に輸出され、ヨーロッパ勢力にも高利潤な交易品として注目されていたからです。

この時代の日本貿易は、主として銀を輸出し、生糸・絹織物を輸入するという形態で行われていました。中国から日本に伸びる「銀の道」には、長崎ルートのほかに、対馬―朝鮮を経由するルート、薩摩―琉球を経由するルートがありましたが、18世紀初期まで、対馬―朝鮮ルートを通過する貿易品の量は、長崎での取引量を上回っていたほどです。

ところが、17世紀後半になると、約1世紀間の大量流出で、国内銀貨の素材不足が深刻化したため、幕府は寛文8年(1668)にオランダ船への銀輸出を禁止し、貞享2年(1685)には御定高仕法を発してオランダ・中国への貿易額も制限し、銀に代えて銅を輸出することを奨励しました。

それでも、国内で使用する貨幣素材はなお不足しましたから、急速に拡大してきた貨幣経済の障害になりました。その結果は、先に見たように、貨幣の供給不足となって、物価の上昇を招きましたから、元禄・宝永期になると、勘定奉行・荻原重秀が相次ぐ貨幣の悪鋳を行って、供給量の増加を図りました。

18世紀に入ると、6代将軍・徳川家宣の侍講・新井白石は金銀銅の輸出が国益に反することを悟り、輸出政策をさらに転換しました。この時までに、日本はすでに金の4分の1、銀の4分の3を失っていましたので、正徳5年(1715)に海舶互市新例を発して、銅の輸出も抑制し、以後は俵物(海産物)や工芸品などの輸出を促進することにしました。この政策は、銅の流出量を極力抑えながらも、貿易総量の維持、拡大をねらったものでしたが、俵物や工芸品の輸出は銀や銅ほどには伸びず、貴金属を求めるヨーロッパにとっては、魅力の乏しい国になりました。

このため、18世紀の日本は、貿易不振で輸入量が減った生糸に代わって、全国各地で良質な国産生糸の生産を開始し、あるいは貴重な薬品であった朝鮮人参もまた国産化を進めるなど、それ以上の貿易拡大を放棄して、自国内で自給自立を強める方向へ大きく転換していきます。

集約農業技術、石高経済制度、半鎖国制度のそれぞれに制約が生まれたため、人口容量は限界に達しました。そこで、当時の人口は1730年代から減少に転じたのです。

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2011年1月 6日 (木)

石高経済制度の破綻

第2は石高経済制度の破綻です。米の価値を基盤にする石高経済制度は、貨幣経済の浸透によって、大きく動揺します。米の価値、つまり米価は1600年ころの1石銀20匁から、30年代の寛永飢饉期に一時的に急上昇したものの、その後はやや落ち着いて、60年代前半には50匁ほどになりました。上昇の要因は、全国人口の増加、とりわけ都市人口の増加で需要が急増したためでした。

60年代後半からは50匁前後で安定しましたが、これは稲作農業の発展で供給量が増加したためです。ところが、90年代に入ると再び上昇しはじめ、1710年前後に130匁まで高騰したものの、20年代に入ると40匁まで急落し、30年代半ばまでこの水準を続けました。

下落の背景には、一方では生産量の増加、他方では飢饉に伴う人口減少といった需給両面からの要因が重なっていますが、それに加えて、何度か実施された貨幣改鋳もかなり影響しています。貨幣の供給量が増加すれば物価は下がり、減少すれば上がるからです。

17世紀末から18世紀初頭にかけては、貨幣の影響が急速に拡大する時期です。貨幣経済が全国に浸透してくると、それまで自給経済に閉じ込められていた農村部でも、各地の特産物を中心に商品生産が開始され、富裕な農民層が出現してきます。農村で商業生産が盛んになるにつれて、年貢収入の停滞や減少、物価の上昇が進行し、幕府や大名・旗本などの財政を悪化させたり、零細農民の一揆を招きました。また都市部、とりわけ江戸では商業経済の急拡大で物価が高騰し、町人の打毀しが起こりました。

こうして、貨幣経済は米を基準とする石高経済を次第に脅かすようになりました。米価の下落は他の商品価格に対する相対的な購買力を低下させますから、年貢米を売却し、その代金で必要な生活物資を購入している武士層の経済に、大きな打撃を与えました。

その影響は幕府財政にも波及し、収支を急速に悪化させました。貨幣による出費が年々増える一方で、財源が減少したからです。幕府の年貢率は17世紀の6公4民~5公5民から、18世紀には4公6民まで低下しました。また18世紀には鉱山からの金銀の採掘量が湧水対応や通気技術の停滞で次第に低下し、銅の採掘量も漸減していました。その結果、幕府財政は慢性的な赤字に陥っていきます。

このため、幕府は、1720年代から、従来の米価抑制策を大転換し、米価引き上げに踏み切ります。一方では強力な物価統制にも踏み切り、享保9年(1724)の物価引下げ令、同3~9年(1718~24)の株仲間結成の公認など、新たな商業統制に追い込まれていきます。

同時に幕府財政の危機的状況を脱するため、享保7年(1722)、幕府は勝手掛老中・水野忠之に命じて、財政悪化の改善に乗りだします。その内容は、①幕領地を拡大するため、新田開発を奨励する、②幕領の年貢率では、収穫量に租率をかけた「有毛検見取法」を改め、作柄の豊凶に関わらず、毎年一定の収納を確保できる「定免制」を採用する、③当面の歳入を確保するため、諸大名の参勤の江戸逗留期間を半年にする代わりに、1万石当たり米100石を幕府に上納する「上米の制」を実施する、などでした。

石高経済制度の混乱で、幕府財政の悪化や武士階級の疲弊、さらには農村や都市部での階級格差の拡大、飢饉被害の増幅、一揆や打毀しの頻発などが発生しました。

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2011年1月 5日 (水)

集約農業技術の限界

以上で述べた3つの柱、つまり集約農業技術、石高経済制度、半鎖国制度を基盤にして、集約農業文明の人口容量は形成されました。このため、農業後波の人口は、1300年ころから緩やかに増えはじめ、1600年ころから急上昇に転じ、江戸中期の1730年前後に約3230万人でピークを迎え、以後は停滞して、1790年前後には3000万人を割るところまで落ちていきます。停滞の背景としては、3つの原因が考えられます。

第1は農業生産の飽和化です。実収石高は1700年の3063万石から1730年の3274万石へ211万石増えたものの、17世紀の年間伸び率0・32~0・56%に比べると、0・22%へ低下しています。また耕地面積も1700年の284万町から1730年の297万町へ13万町増加したものの、17世紀の年間伸び率0・26~0・38%に比べると0・15%へほぼ半減しました(速水・前掲論文)。

先に述べたように、江戸時代約270年間のうち、140年後の幕末を100とすると、この時期までに耕地面積は92%、生産石高は70%にも達しています。それは、当時の開墾技術や農業技術がほぼ限界に達したからでした。耕地の拡大と労働集約的・土地節約的進歩で急速に発展してきた集約農業は「17世紀末から18世紀初めのころになると、天井に到達するようになっていた」と速水融も述べています(前掲論文)。

さらに農業生産に著しい制約を加えたのが気象の悪化です。18世紀後半は著しい寒冷期となり、大飢饉が連続して発生しました。1755年の宝暦の飢饉、74年の安永の飢饉、82~87年の天明の飢饉などは、いずれも夏季の気温低下による冷害でした。

当時の集約農業技術は、粗放農業技術に比べてかなり高度化しており、通常の気候不順には十分に耐えられる水準にありました。だが、もともと亜熱帯性の植物である稲を全国、とりわけ東北地方にまで普及させていましたから、気候のよい時はともかくも、大規模な気候不順が発生すると、その被害は甚大なものになったのです。ここにも集約農業の限界がありました。

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2011年1月 4日 (火)

半鎖国制度

3番めの半鎖国制度とは、日本列島を治める政権が、国外との交流にさまざまな制約を設けたうえで、国内で可能な限りでの人口容量を形成する制度です。

一般に鎖国といえば、江戸幕府が海外との交流に制限を加えて、国家を封鎖した状態をいいます。寛永10年(1633)、3代将軍・徳川家光は「寛永鎖国令」を発令して、日本人の海外往来禁止、キリシタンと宣教師の取締り、外国船貿易の制限を命じましたが、37~38年の島原の乱でさらに強化し、ポルトガル船の来航停止やヨーロッパ人妻子ら血縁関係者の国外追放なども加えて、鎖国体制を完成させました。

鎖国政策の要点は、①キリスト教の禁止、②外国人の入国制限、③日本人の海外往来の禁止、④貿易の統制・管理にしぼられますが、徳川政権がこの政策に至った背景には、次のような要因があります。

第1は海外からの圧力や混乱をできるだけ排除することでした。キリスト教の旧教国と新教国の対立、日本貿易をめぐる角逐、布教の裏にある侵略的意図といった外的圧力から、日本を極力離すことをめざしていました。第2は統一国家をめざすうえで、異国的な宗教を信仰する大名・家臣・領民の存在は障害になりますから、これを排除して統制を強化する必要に迫られたのです。そして第3は、政治や外交から経済や文化までを、一元的に掌握する国家権力の成立を誇示することでした。

とすれば、徳川政権の鎖国政策には、西欧諸国の競合関係や清国の海禁政策、あるいは当時の航海技術や日本の地理的位置など、当時の国際政治状況を総合的に読み込んだ上で、思想的にも経済的にも、国家の独立的存立を達成するという目標があったものと思われます。その具体的な対応は、次のようなものでした。

1つは、鎖国といいながらも、「4口」、つまり長崎口、対馬口、薩摩口、松前口の、4つの対外窓口を開いて、最小限必要な海外取引については、なお継続していました。長崎口では幕府の直接管理のもと中国とオランダに対して貿易が行われ、対馬口では対馬藩が対朝鮮の外交、貿易の中継ぎ役を担っていました。また薩摩口では、薩摩藩が琉球を通じてのアジア貿易を行い、松前口では松前藩がアイヌ人を通じて北方貿易を行っています。こうした制度によって、国内では調達できない物資や情報などを、海外から輸入する態勢を形成していたのです。

2つめに、国内で自給できる食糧や物資については、列島の隅々にまで到達できる交通・流通制度を確立しました。江戸や大坂をはじめ、各藩の城下町などが流通拠点としての都市として形成され、陸上交通網や海上・河川交通網もが整備されました。

陸上交通では、江戸・日本橋を起点に、東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5街道が整備され、1里ごとに1里塚、一定間隔ごとに宿場が設けられ、さらに継馬、伝馬、飛脚なども用意されました。また海上交通では、西廻り航路、東廻り航路、菱垣回船、樽回船などが整備されました。西廻り航路は、北前船で北陸以北の日本海沿岸から関門海峡、瀬戸内海を経て、大坂へ向かう航路、東廻り航路は北陸や東北の日本海側から津軽海峡、三陸沿岸を経て、太平洋を回航し、江戸に至る航路です。菱垣廻船や樽廻船は、大坂などの上方と江戸の消費地を結ぶ貨物船でした。

こうした陸・海両ルートの整備によって、各地で生産された米や特産物は、江戸や大坂へ運搬されるとともに、両所を経由して全国へ流通しました。これによって、飢饉時には大量の米を各地に分配できる態勢が整い、国内だけで最大限の人口容量をめざすことが可能になったのです。

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2011年1月 3日 (月)

石高経済制度

2番めの石高経済制度は、米の計量単位である「石」を、社会的、経済的、政治的な価値の基準にする制度です。石の大小によって、水田や地域の生産量から支配階級の経済的・軍事的地位までを、統一的に計測する制度として、戦国時代後半から江戸時代にかけて定着しました。

それ以前の鎌倉・室町時代には、一定の水田で収穫される平均的な米の生産量を、当時の通貨単位「貫」に換算する貫高制が普及しており、戦国大名の領国支配まで続いていました。ところが、天下統一を果たした豊臣政権は、1591~92年に御前帳と人掃令を発して、全国一斉に家数・人数の調査を行い、自らの政治基盤とすべき石高・家数人数を把握するとともに、百姓から年貢・夫役を徴収する方式を確立しました。いわゆる「太閤検地」ですが、この時用いられた石高は、米の生産量を基準として農耕地を評価する制度でした。

その後、石高は米以外の農作物や海産物の生産量、田畑や屋敷などの評価高、大名や旗本の所領からの収入や俸禄などにも拡大され、「石高知行制」にまで発展します。石高知行制というのは、将軍から大名へ、大名から家臣へと、石高を与えるものですが、経済的には年貢の収集基準となり、政治的には軍役の賦課基準となりましたから、経済・政治の両面に影響を与えました。

経済面でいえば、最大多数の生産者である農民たちが、生産物の一部を支配者に年貢で収める際、その納入比率は2公1民や5公5民といった呼称でよばれ、石高に対する一定の割合として定められました。また石高制の下では,米が基本通貨としての役割を担いますから、米価の高騰や下落は庶民生活から領主財政にまで大きな影響を与えます。だが、当時の支配階級には、米の生産調整や売買による需給調整を行う能力が欠けていましたから、凶作時には酒造制限令や禁止令を出し、豊作時には緩和するなど、主食向け以外での調整を頻繁に行うだけでした。

他方、政治的にいえば、1石は大人1人が1年に食べる米の量に相当しますから、これを配下の武士に与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵力を養えることになります。そこで、石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味するようになり、これが江戸幕府にも継承されて、その軍役令においても、各大名は表高1万石あたり約200人の軍勢を動員する義務を課せられました。

  こうして、石高制という価値基準は、全国的に通用する、普遍的な原理になりました。つまり、米の生産量が社会的価値の基準となったのです。

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2011年1月 2日 (日)

集約農業技術

享保の改革がはじまった背景には、徳川幕府の開幕以来、一貫して伸び続けてきた人口が、一転して減りはじめ、それに伴って社会や経済も、従来の成長・拡大型から飽和・濃縮型へ移行しなければならないという事情がありました。繰り返しますが、人口減少がはじまったのは、当時の社会を支えた人口容量が満杯になったからです。この人口容量は集約農業文明が形成したものでしたが、それは集約農業技術、石高経済制度、半鎖国制度の3つの柱によって支えられていました。

集約農業技術というのは、従来の粗放農業技術をさらに緻密にした農業技術です。紀元前500年ころ大陸から伝わってきた粗放農業技術は、初歩的な水田水稲技術を中心に金属器技術や土木技術を含む、いわゆる「弥生文化」ですが、これらの技術の改良によって平安・鎌倉時代の人口容量は約700万人に達していました。この粗放農業技術をさらに改良し、もう一段高いレベルに押し上げたのが集約農業技術です。

その形成過程を、歴史学者の永原慶二は「水田の耕作条件の安定と大幅な増加」という2つの事実に分けて説明しています。耕作条件の安定化とは、①平安末期にはじまった水田2毛作が水田の乾田化の進行とともに拡大した、②室町期には草木の刈敷(かりしき)、厩肥(きゅうひ)、堆肥(たいひ)、草木灰に加え人糞尿の肥料化が進んだ、③平安時代にはじまった稲の品種の多様化がさらに進行し、多収穫かつ低湿田に適したインド種赤米(あかごめ)=大唐米(たいとうこめ))の栽培が盛んになった、④平安時代にはじまる畠の2毛作の比重が高まった、などをさしています(『室町・戦国の社会』)。これに加えて、⑤牛馬耕作の開始や⑥鳥獣駆除の進展といった農業技術の改良も、耕作条件を改善しています。

また水田の大幅な増加は、①新田の開墾の拡大や②水利・堤防技術の向上によるものです。室町時代には、守護層はもとより名主上層、在地の荘官、地頭までが既存水田を私有しはじめ、同時にそれぞれの下人層や傍系血族を使って新開地を開発し、自らの所有とします。さらにこの時期には運河網の発達、揚水車の普及、番水(ばんすい)の整備なども進みます。こうした傾向が、利用可能な水田の面積を次第に増加させました(同上)。

室町時代後期になると、有力守護たちの中から現れた守護大名が領国の土地と人民を支配する「領地領民」制を確立します(古田隆彦『日本人はどこまで減るか』)。戦国時代に入って、彼らの多くは「戦国大名」に席捲されましたが、領地領民制はその後も続き、織豊時代を経て徳川幕藩体制に至るまで、基本的な統治構造となりました。

このため、守護大名や戦国大名は、各々の支配地の土地生産性に関心を高め、水利や開墾から施肥や農具改良に至るまで、幾つかの改革や改良を促しましたから、農業技術は飛躍的に進展しました。とりわけ戦国大名は、築城・道路建設・鉱山採掘など、軍事的な目的で向上させた土木技術を、水利、灌漑、開墾などにも積極的に応用し、経済的基盤の拡充をめざしました。

水利でいえば、大河川の上流から取水して、長大な用水路で台地や扇状地まで引水したり、小さな溜池を水路でつないで溜池群を造成したり、長大かつ堅固な連続堤を築くことなどで、水田の拡大と水田経営の安定を図りました。信玄堤に代表される甲州・武田氏の釜無川や笛吹川開発、越後・上杉氏の信濃川開発、安芸・毛利氏の太田川開発などが代表例です。

関が原の合戦の後、世の中が平和になると、これらの優れた農業関連技術が全国に普及し、それにつれて、農業生産は急速に拡大しました全国の耕地面積も、1600年頃の約200万町歩から、100年後の1700年前後には約300万町歩にまで増加しています(速水融ほか「概説 17―18世紀」)。

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2011年1月 1日 (土)

享保の改革

閉塞感の広がる享保社会をなんとか立て直そうとしたのが、8代将軍・徳川吉宗です。彼が将軍に就任する20~30年ほど前から、全国各地で特産物を主軸にした商品生産が発達し、石高経済の中に貨幣経済が浸透しはじめていましたから、貨幣価値の混乱で物価が高騰し、諸藩はもとより幕府の財政も悪化していました。

そこで、享保元年(1716)、将軍に就任した吉宗は直ちに、前代からの側用人政治を排して、老中・譜代が中心の正統政治に戻し、そのうえで、後に「享保の改革」とよばれる大改革に乗り出します。およそ30年に及ぶ改革は3つの時期に分かれます。

第1期(享保元年~7年前半=1716~1722)は、将軍就任直後であったため、「援立の臣(任官を支援した関係者)」への遠慮から、従来の政策を継承しつつ、諸改革を準備した時期です。行政的には御庭番の創置、大岡忠相の町奉行登用、評定所の機構改革、目安箱の設置、全国人口調査の実施、小石川養生所の設置、江戸町火消しの設置、流地禁止令などを実施し、文政的にはキリスト教に無関係の洋書輸入を解禁しました。また経済・財政的には、前代の正徳金銀を継承して、通貨量を縮める享保金銀の発行、旗本・御家人と札差間の金銭貸借訴訟を認めない相対済令など、緊縮政策や金融規制策を行いました。

第2期(享保7年後半~20年==1722~35)は、勝手掛老中に水野忠之を抜擢して、財政を中心に諸改革を本格化させた時期です。行政的には、人材登用を容易にする足高制の導入、小石川養生所設置などを実施し、経済・財政的には、諸大名に領地1万石につき100石の米を差し出させる上米の制、検見法の改革、定免法導入、「五公五民制」への転換、新田開発奨励の高札表示、江戸町方公役銀納令、口米永代蔵令、諸大名や大坂商人への買米令発令などを発しました。こうした積極策によって、幕領からの年貢は増徴され、幕府財政はかなり改善されました。

ところが、これらの諸政策は緊縮を強めるものでしたから、不況が広がり、米価の下落を招きました。享保15年(1730)6月、米価政策の失敗で水野忠之が罷免されると、全国各地で年貢減免を求める一揆が発生し、さらに享保17年(1732)、瀬戸内海沿岸を中心に蝗害による「享保の飢饉」が発生すると、江戸でも「打毀し」が勃発しました。

このため、第3期(元文元年~延享2年=1736~45)になると、前期の失政を反省して、悪鋳で通貨量を増やす貨幣政策へ転換し、勝手掛老中に松平乗邑、勘定奉行に神尾春央を任命して、再び財政改革に取り組んでいきます。行政的には公事方御定書や御触書寛保集成の編纂、天文台の設置など、経済・財政的には田方勝手作仕法を公布し、元文元年(1736)には元文金銀を新鋳しました。これらの政策で、幕府財政はその後しばらく安定した状態となりましたが、延享2(1745)9月、吉宗の退隠に伴って、乗邑も罷免されました。

ともあれ、以上のような改革の強力な推進によって、幕府財政はようやく立ち直り、1722~1731年の10年間に米で約3万5000石、金で約12万8000両、1732~1741年の10年間に米で約4万8000石、金で約35万4000両、1742~1751年の10年間に米で約7万5000石、金で約96万両という黒字を計上しました(大石慎3郎『吉宗と享保の改革』)。これらの成果をあげたことで、吉宗の改革は、寛政・天保の改革とともに、江戸幕府の3大改革と称されています。

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