カテゴリー「3章 「平成享保」から「平成延宝」へ」の記事

2011年2月12日 (土)

政治も経済も停滞する

これまで述べてきたように、「平成延宝」の社会は、人口減少という新たな現実に戸惑って、閉塞感、不機嫌性、攻撃性などを募らせていきます。そのうえ、政治や経済もまた、こうした現実にたじろいで適切な対応を見つけるには至りません。しばらくの間は無為無策の混迷状態が続いていくものと思われます。

政治でいえば、自由民主党から民主党へと政権が移行したにもかかわらず、政治構造そのものは一向に変わらず、大御所政治や側用人執政のように、権力の二重三重構造がはびこって、リーダーシップの形骸化が目立つようになります。既存政党から分離した小政党が乱立するようになりますが、いずれの政党も過去の政治姿勢や権力発想から脱却しきれず、無用な権力抗争を続けることになります。

また政治家や官僚の発想力も、人口増加時代の価値観をなお引きずって、いたずらに成長拡大路線への復帰を狙うあまり、無効であるばかりか無用な政策にとらわれていますから、拡大する政治課題への解決には、ほとんど弥縫策に終わることになります。

経済分野においても、企業人やエコノミストの多くがやはり人口増加、成長・拡大路線から脱却できず、急拡大する近隣新興国への輸出ばかりに気をとられて、内需構造の変化への対応に立ち遅れることになるでしょう。

 あるいは、過去のモノづくり発想にとらわれて、人口減少・飽和・濃縮社会に見合った暮らしを創造しようとする、真の生活者のコトづくり需要を見逃すことになります。

こうして平成20年代、つまり2008年から2017年ころまでの日本は、いっそう強まる閉塞感の下で、新たな方向を模索しつつ、なおも鬱積した気分を続けることになるでしょう。(3章・終・・・ご意見はコメント欄へ)

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2011年2月10日 (木)

引きこもる人々

3番めの特徴は、引きこもり現象の増加です。閉塞化の進展で他人への攻撃性が強まり、圧迫度の高い社会が続いていると、他人と接触すればするほど自意識が傷つく機会が増えてきます。そこで、できるだけ接触を避けて自分を閉ざし、内側に引きこもっていく人たちが増えてきます。

ヨーロッパの中世後期にも、農村での農民の集団逃走や商業都市での乞食の増加といった現象が見られました。

 日本の江戸中期にも「無宿」という形で、閉塞社会から〝降りる〟人たちが増加しています。無宿には、乞食や物もらいなどの無宿野非人(のひにん)や、長脇差を腰に差した浪人博徒などの無宿人も含まれていますが、18世紀の中ごろから江戸や大坂などの大都市で発生し、その後半に急増して、社会不安を起こすようになりました。このため、幕府は安永7年(1778)、江戸、大坂、長崎などの無宿人を捕らえて、佐渡金山の水替人足に送り込んでいます。

他方、知識階層でも一種の引きこもり現象が起きていました。身分制度が固定化し社会全般に停滞の気配が漂いはじめた享保期以降、知識人の間でも身につけた学問や教養を生かす術がないという不満や挫折感が広まっていました。

 彼らの中から、現実への関心を捨てて、芸術や趣味の世界に自己の才能を傾注する生き方を選んだ人たち、いわゆる「文人」が生まれました。文人画の池大雅、俳諧と文人画の与謝蕪村、狂歌師で戯作者の大田南畝といった人たちで、現代風にいえば「オタク・アーティスト」です。

以上のように、歴史上の引きこもり現象は、一方では無宿、つまりホームレスを、他方では文人、つまりオタクを、それぞれ増加させています。こうした事例を参考にすると、平成20年代(2008~17)には、同様の傾向が強まることが予想できます。

 すでに昨今の世相でも、学校や職場からひとまず身を引いて、自室に閉じこもる〝引きこもり〟現象、社会から一旦降りて放浪する〝ホームレス〟現象、一つの組織に囚われない〝フリーター〟現象などが増えています。一般の生活者の間に広がっている無関心・無干渉主義もまた、同じ傾向の一端でしょう。

 さらにはこうした意識の延長線上に、先にあげた自意識の過剰が加わって、自分の好きなモノだけに執着するフェティシズムや、自分の好きな世界だけに埋没していくオタク志向も拡大しています。

こうした傾向は飽和期が進むにつれてさらに強まり、平成20年代には、仕事のない無職者やフリーターが増加し、ホームレスが増えていくことも予想されます。もっとも、その一方では、積極的にオタクを選んだ人々の中から、斬新なアーティスト、意外な発明家、大胆な起業家などが育ってくる可能性がないとはいえません。

そこまではいかないとしても、いわゆる「内向き」志向が強まってくるのは、もはや避けようがありません。

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2011年2月 9日 (水)

強まる攻撃性

2番めの特徴は、自分の領分が少しでも侵されると、自分自身が傷つけられたと過敏に感じて、過剰に反発する人が増えてくることです。

 人口容量が伸びない以上、他人との関わり方にますます敏感になるうえ、自己肥大化で不機嫌になっていますから、ほんの些細なことでも爆発的に暴力に走るケースが増えてきます。

ヨーロッパの中世後期でいえば、1370年以降に、農民一揆が続発しています。封建領主による農業経営から自立しはじめた農民層に対して、支配者側はさまざまな抑圧を続けていましたから、フランスではジャックリーの乱、イギリスではワット・タイラーの乱、南ドイツではアペンツェル戦争など、地域的な農民一揆が起こっています。

 1358年に発生したジャックリーの乱は、1カ月で約1万に達し、また1381年にはじまったワット・タイラーの乱はロンドンを占領し、リチード二世と会見して、農民の権利拡大を要求しています。

江戸中期の日本でも、百姓一揆都市打毀が多発していました。百姓一揆では、先に述べたように、延享・延享・宝暦年間、小百姓が参加する惣百姓一揆が急増し、明和元年(1764)の関東大一揆(伝馬騒動)には、20万人もの小百姓が参加して、幕政を揺るがすほどになりました。

 一方、都市打毀しも、宝暦期(1751~63)になると、都市の庶民層が中心勢力となった惣町一揆が各地で勃発しました。

このように人口容量が飽和した社会では、身近な集団の中ではじまった攻撃行動が、次第に社会全体に広がり、やり場のない不満を手当たり次第にぶつけるようになります。

 昨今の日本でも、満員電車や混雑した駅などでは、ちょっと押されたり肩が触れ合っただけで、いがみあったり喧嘩に走り出しています。あるいは一瞬目を合わせただけで、悪意を感じて極端にキレたり、異常な攻撃にも出るケースも増えています。

 その延長線上で、最近のニュースには、無差別殺傷事件個室ビデオ店放火事件通行人連続殺傷事件など、異常な犯罪行為がしばしば登場しています。

一方、接触する機会が極めて濃密な知人や家族の集団においても、学友や仕事仲間の間ではイジメやシカトが、親子の間では幼児虐待家庭内暴力老人虐待が、夫婦や恋人の間ではドメスティックバイオレンスなどが、それぞれ頻発しています。

 それらが行き着いた先が、幼児殺人老親殺人といった、極めて悲惨な事件です。

いずれも閉塞社会の一面を示していますが、こうした現象は今後さらに広がっていく可能性があります。

 とりわけ、平成20年代(2008~17)には、失業者、破産者、あるいはフリーターなどの増加に伴い、彼らが徒党を組んで示威運動を展開する可能性も考えられます。

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2011年2月 8日 (火)

肥大化する自意識

最初に指摘すべきは、自意識の肥大化です。人口容量の制約がさまざまな形でその身に及びはじめると、人々は不安や危機を感じて、とにかく自らの身を守らねばならないと自分自身を強く意識します。

人口容量が拡大していた時代には、自分の心身、生き方、時間、経済状態などで、かなりの豊かさや自由さを満喫できましたから、さほど自分を意識する必要はありませでした。


 ところが、閉塞化が強まにつれて、ほんの僅かの制約が現れただけで、人々は敏感に自分自身を意識し、ともすれば自己中心主義やミーイズムに走りだします。

こうした自意識の拡大が、結局は晩婚化・非婚化を進め、嬰児殺しを増やします。中世後期のイギリスでも、人口容量が飽和化した14世紀ころから、一般庶民はもとより中流層の間でも晩婚化・非婚化が進みはじめ、15世紀中葉には総人口の4分の1が非婚者であった、と推定されています(N・F・カンター『黒死病』)。


 また13世紀中葉から14世紀末期にかけての男女児の性比は、ペスト流行の一時期を除いて、「女:男=3:4」と極めて不自然で、人口を抑制するために、意図的に女児への嬰児殺しがあったことを示しています(R・G・ウイルキンソン『経済発展の生態学』)。

日本でも、集約農業文明による人口容量が飽和化した江戸中期に、農村では多くの農民たちが、堕胎や間引き(嬰児殺し)などを頻繁に行っていました。1章で述べたように、それは飢饉や凶作のために「やむなく」行われたのではなく、多くの子供を持つよりも1人当たりの所得を最大化し、生活水準の維持・改善をめざすという選択の結果でした。

 それゆえ、江戸時代の出生率は、生活水準がより低かった17世紀よりも、生活水準が上がった18~19世紀の方が、逆に低下しました。結局、人口容量が飽和した江戸中期にも、晩婚化・非婚化志向や生活水準優先志向といった個人主義志向が目立ったのです。

歴史的な先例を参考にすると、今後の日本社会が読めてきます。一向に不況が回復しない経済状況の中で、すでに日本人の多くは肥大化した生き方や生活水準を割くことを恐れて、他人との結婚は避け、晩婚化・非婚化へと突き進んでいます。

 たとえ結婚したとしても、それまでの生活水準が落ちるのを恐れて、子どもを作ることを極力回避しますから、出生率は下り続けています。あるいは高齢世代の扶養負担を嫌って、年金加入を忌避していますから、やがては80~90代の人々の寿命を縮めることになります。

人口抑制行動に現れた、このような意識は、平成20年代(2008~17)を生きる日本人の、最も基本的な生活価値観となっています。昨今の社会で、若い世代から中高年にまで、ジコチュー(自己中心主義)ミーイズムが広がりはじめているのは、まさにこうした意識のせいです。とすれば、自己肥大化という傾向は、人口減少ショックの余震がなお続く平成30年代まで、なおも続いていくでしょう。

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2011年2月 7日 (月)

人減ショックが続く

人口が減りはじめた社会、つまり人口容量の壁にぶつかった時代には、従来の人口増加社会とは異なる、特有の社会心理が浮上してきます。この背景には、次の式が示すような社会の基本構造が潜んでいます。

   P(総生産量)
   V(人口容量)=─────────────────
            
L(人間1人当たりの生活水準)

右の式は、人口容量、総生産量、1人当たりの生活水準の関係を示しています。V(人口容量)とは、文明が作り出したP(総生産量)を、L(人間1人当たりの生活水準)で割った数字である、ということです。

この式で、Ⅴが伸びている時には、Pも伸びており、したがってLも伸びています。人口容量が伸びている時代には、総生産量も伸びていますから、当然、人間1人当たりの生活水準も上昇していく、ということです。

ところが、Vが停まった時には、Pも伸びなくなっていますから、Lも伸びません。それでもなおLが伸び続けていると、Vは逆に減っていきます。つまり、人口容量が停まった時、1人ひとりの生活水準が上昇し続けていると、容量はますます減っていく、ということです。

 そうなると、上昇はともかくも、今までの生活水準を維持しようとすれば、人口を抑えることが必要です。そこで、親世代は子どもを減らし、子ども世代は高齢世代の世話を縮小していくようになります。

こうした環境下で1人ひとりの選ぶ、晩婚や非婚という結婚抑制行動、避妊や中絶などの出産抑制行動、世話の拒否や年金負担の忌避といった扶養敬遠行動は、やがて集団全体に広がって人口を減らしていきます。


 これこそ人間特有の「人口抑制装置」(詳しくは古田隆彦『日本人はどこまで減るか』参照)の実態ですが、それに留まるものではありません。この傾向は人口の増減という次元を超えて、さらに社会全体の人間関係にも広がって、世の中にせちがらい風潮を蔓延させていきます。

なぜなら、世の中全体の豊かさが伸び悩む時、なおも自分だけの豊かさを広げようとすれば、他人の豊かさを奪うしかない。そこで、お互いの競争が激しくなり、それが行き過ぎると、イジメやシカトなど歪んだ形に変わり、あるいは不条理な攻撃性を増していきます。さらにそれが過激になると、他人を避けて自分だけの世界に引き籠もったり、あるいは競争に疲れ果てて自傷行為に走る人たちも増えてきます。

人口容量の伸びていた時には、人々が自意識を肥大させ、生活願望をどれだけ膨ませても、それなりに許容できました。だが、容量が伸びなくなったのに、自意識をますます膨らませた人々が増えれば、世の中は急速に息苦しくなります。必然的に競争が激しくなり、攻撃的になったり、逆に自閉的になったり、ついには脱落していく人たちも増えてくるということです。

こうした閉塞した時代の社会心理を、3つの側面から考えてみましょう。

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2011年2月 6日 (日)

平成延宝を読む

この社会ムードは、同じように人口ピークを過ぎて5年ほどたった現代日本にも、ほぼ当てはまると思います。

現代日本の人口は、平成22年(2010)の1億2700万人から平成32年(2020)には1億2122万人~1億2274万人へ、400~600万人も減っていきます(国立社会保障・人口問題研究所2006年推計低位値~中位値)。この10年間の社会を、「延享から宝暦まで」を略して「延宝」、つまり「平成延宝」と名づけたうえで、藁科松伯の文章を大胆に読み替えてみましょう。

平成20年代(2008~17)の日本では、ほぼ半世紀以上も戦争にも巻き込まれず、国内でもさほど大きな紛争も起こらない社会が続いてきましたから、国民は安逸をむさぼり、上下を問わず奢りの病根を抱くようになりました。奢りが高まってくると、病的症状が表に顕れて、誰も彼も気難しくなってきます

気難しくなると、些細なことにでも立腹しやすくなりますから、周りの人々と対立すると、衝動的な行動に走ることもあります。少しでも変事があれば、人心は大きく衝撃を受けて、ふらふらと動揺します。

いわんや労働者派遣、税金、国民年金、健康・介護保険、生活保護、高速道路使用料など、国民の生活に切実な政策は、政権の恣意でころころと変りますから、あちこちから不満が高まってきます。

派遣切り社員が増加すれば、ネットカフェ難民が騒ぐ。配偶者控除除外者が怒れば、低所得者も抗議する。年金受給者が記録漏れを訴えれば、負担者の多くは年金破綻を指摘する。高齢者が「後期高齢」を否定すれば、生活保護排除者が大泣きする。一般ドライバーが負担増を告発すれば、フェリー業者が苦境を訴える。

このように国民の心が騒がしくなると、結局のところ、一度は治った世の中は再び乱れるのが天の常道である以上、社会全体の揺れる兆しもそろりそろりと現れてきます。

以上のように、約250年前の文章は、少し単語を変えれば、現代社会にそのまま当てはまります。なぜこんなことができるのでしょうか。それは、いかに時代が違うとはいえ、人口容量が飽和した社会の、最も基本的な構造が極めて似ているからだと思います。その構造とはどのようなものなのか、人口容量のしくみから考えてみましょう。

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2011年2月 4日 (金)

気難しい時代

この時代の様相を、米沢藩医・藁科松伯(貞祐)は、幼い世子・上杉治憲(鷹山)の将来を慮って、宝暦の次の明和初年に次のように述べています。

「当時の勢ひは、最早太平打続き、四海静過ぎて、上下共著りの病根ゆへ、次第に病症顕はれ申候て、誰も彼も気むつかしく御座候間、腹立気持の人情に成候ゆえ、少しも常に変り候事か御座候へば、人の心動き立候てふらふら仕る様に御座候。況や年貢取立て百姓あたりの辛き事か、常に変り候仕形あれば、年々に打続き候て、そこもここも一挟・徒党の沙汰にて、日光が済めば山県大弍が出現、大坂が騒げば佐渡ゆるる、伊勢路もめれば越路もかしましく、斯様に百姓の心騒しく成行候も畢寛は、一度は治り、一度は乱れ候天道の事に御座候へば、そろりそろりと天下のゆるる兆も御座あるべく候」(池田成章編『鷹山公世紀』吉川弘文館・1906)

やや難解ですから、筆者なりに意訳してみましょう。

「当今の世相は、永らく平和が打ち続き、国際環境も静か過ぎて、上下を問わず国民は奢りの病根を抱いていますが、その病状が次第に顕れて、誰も彼も気難しくなっています。腹立たしい気持にかられるゆえに、少しでも変事があれば、人心はざわめいてふらふらと揺れることになります。いわんや年貢取立てでは、百姓には大変辛いことに徴収方法がころころと変り、それが年々続いていますから、そこにもここにも一揆・徒党の沙汰です。日光が済めば、山県大弍が出現し、大坂が騒げば、佐渡も揺れる。伊勢路がもめれば、越路も喧しい。このように百姓の心が騒がしくなると、つまるところ、一度は治り一度は乱れるのが天の常道である以上、そろりそろりと天下の揺れる兆しも現れております」

こうしてみると、表面は平穏に見えながらも、内部ではどろどろと鬱屈した気分が沈潜しているという、時代のムードが見事に描かれていることがわかります。人口のピークを過ぎたにもかかわらず、次の方向を未だに見出せない時代とは、おそらくこのようなものなのでしょう。

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2011年2月 3日 (木)

はじまった幕政批判

一揆の拡大と呼応するように、この時代になると、開幕以降初めて、尊王思想によって幕政を批判する動きがはじまっています。

宝暦6年(1756)11月、京都所司代は垂加神道家竹内式部に対し、公家への出入差し控えを警告しました。竹内式部は正徳2年(1712)越後の医師の家に生まれ、享保13年(1728)ころに上京して徳大寺家に仕え、山崎闇斎門下の松岡仲良玉木正英に師事して、儒学や神道を学んだ後、自ら家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授しました。垂加神道とは「天地開闢の神の道と天皇の徳とが唯一無二のもの」と考える強烈な尊王思想です。

当時の京都では、幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家が衰退の危機にあり、一条家以外の若い公家達の間では、幕府の専制と摂関家による朝廷支配に不満が高まっていました。そこで、式部から神書・儒書の講義を聴いた公家たちは、桃山天皇への直講を計画し、宝暦6年(1756)に実現させました。

これに対し、朝幕関係の悪化を憂慮した前関白一条道香は、天皇近習の7名を追放したうえ、公卿の武芸稽古を理由に宝暦8年(1758)、式部を京都所司代に告訴しました。同年7月、所司代は式部を拘禁したうえ、翌宝暦9年(1759)、重追放で京都から追放し、式部の門弟の公卿17人も罷免・永蟄居・謹慎などに処しました。

いわゆる「宝暦事件」ですが、この事件によって、幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は、摂関家に反発を抱き、天皇家と摂関家の対立が激化しました。両者の対立は、桃園天皇が22歳の若さで急死する宝暦12年(1762)まで続きました。

ところが、宝暦9年(1759)2月になると、今度は江戸で、山県大弐が『柳子新論』を著して、尊王論を展開し、幕政を批判しました。山県大弐は、享保10年(1725)、甲斐に生まれ、甲府に出て加々美光章五味釜川らの学者に学び、寛保2年(1742)に上京して、医術のほかに儒学も修めた後、甲斐の山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説きました。延宝2年(1750)、弟の起こした殺人事件に巻き込まれて浪人となり、宝暦6年(1756)ころに江戸へ出て、若年寄の大岡忠光に仕えました。

ところが、忠光が没したため、大岡家を辞して、江戸八丁堀長沢町に私塾「柳荘」を開きました。この塾で彼は古文辞学の立場から、儒学や兵学を講じていましたが、『柳子新論』の中で激しい幕政批判を展開しました。

その柳荘へ、竹内式部の盟友・藤井右門が寄宿し、『兵書雑談』を著して、江戸攻略の軍法などを説きました。藤井は「宝暦事件」に連座して江戸に逃れていたのです。両人の言論に激怒した幕府は、大弐の弟子に上野国小幡藩士が多かったことから、同藩の内紛にかこつけて2人を逮捕し、明和4年(1767)、大弐を死罪に、右門を磔刑に処しました。さらに竹内式部も関与を疑われて、八丈島に流罪となり、護送中の三宅島で病没しています。これが「明和事件」です。

宝暦・明和事件は、幕府権力の固定化に対応して、尊王思想の復活を意図したものでしたが、いずれも幕府の弾圧によって抑えこまれています。しかし、その後も社会の深部に沈潜し、やがて100年後に明治維新を引き起こす原動力となっていきます。

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2011年2月 2日 (水)

年貢強化が一揆を招く

急激な米価変動に晒されつつ、幕府はなお財政健全化への努力も進めました。吉宗政権の延長線上で、延享4年(1747)3月に奥州半田銀山を直轄化し、寛延2年(1749)5月には、年貢徴収に関する定免制を全面的に施行するなど、収入を増やす努力を続けています。

それでも財源が減少したため、大岡忠光の執政下になると、宝暦5年(1755)2月、諸役所の経費節減のために勝手向御用掛を任命し、4月には向こう3年間にわたる役所毎の年間支出額を定めるなど、経費節減を実施しています。

しかし、宝暦5年の奥羽冷害で津軽、八戸、盛岡藩などに飢饉が広がって、多数の餓死者が出ました。そこで、幕府は各藩に救援米を送り、翌年には出羽庄内藩へ救助金として1万両を貸し与え、続いて熊本藩や津軽藩などへも救済措置をとりました。

宝暦6年(1756)3月には、天領についても、村高に対して課せられた付加税である高掛物(たかかかりもの)を免除し、宝暦7年(1757)12月には、夏の洪水で大きな被害を受けた関東の7藩へ恩貸金を出し、関東、北陸、東海道筋に領地を持つ旗本にも貸与の申請をするよう命じています。

このため、幕府財政は再び悪化しましたので、宝暦8年(1758)12月、幕府が実施する河川修理について、諸藩が費用を負担する国役普請制を、翌年から復活することを決定しました。

ところが、定免制の全面的な施行は、農民層の負担を増加させましたから、延享~宝暦年間になると、全国で百姓一揆打毀し(うちこわし)が拡大しました。延享年間(1744~47)には、延享2年の河内・摂津における旧大和川筋新田地帯の増徴反対の越訴、3年の豊後日田の越訴や美作勝南地方の百姓逃散、4年の羽前上ノ山藩の打毀しや強訴と続いています。

寛延年間(1748~50)に入ると、寛延元年の越前福井藩や播州姫路藩の百姓一揆、2年の岩代二本松藩や会津藩の百姓強訴、佐渡の百姓強訴などが勃発し、さらに宝暦年間(1751~63)には、宝暦元年の信濃松代藩の百姓強訴、4年の久留米藩の一揆、3年の備後福山藩の百姓一揆、4年の久留米藩の大一揆、5年の郡上藩農民代表の駕籠訴など、毎年のように発生しています。

そこで、幕府は寛延3年(1750)1月に、百姓の強訴・徒党・逃散の禁止を布告し、さらに宝暦5年(1755)5月には百姓一揆鎮圧令を出しています。だが、それにもかかわらず、宝暦5年の奥州冷害・飢饉以降はなおも各地で一揆が発生しました。

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2011年2月 1日 (火)

続く「米価安の諸色高」

この時期には、粗放農業生産が上限に達したという人口容量の壁の下で、いかに安定した社会を作り出すかが幕政の課題でした。しかし、当時の幕府は吉宗政権の長期化に伴って、徐々に惰性化が進行していましたから、さまざまな矛盾が噴出しました。

経済体制ではやはり石高経済が続いていましたから、米価の上昇諸色高の抑制が幕政の大きな課題でした。米価は元文改鋳の後、徐々に上がりはじめ、1740年前後に60~70匁台を回復していましたが、その後再び低下傾向が現れていました。貨幣政策で持ち直したものの、実需不足がさらに進行したからです。

このため、延享元年(1744)9月、幕府は蔵米を担保とした御家人の借金帳消し令(棄捐令)を出す一方で、米価の引上げをめざして、江戸・大阪の町人に買米を命じ、さらに12月には米売買取締のため米吟味所を設置しています。

ところが、寛延年間(1748~50)に入ると、米価安で町人の間にはかえってゆとりが生まれ、それが新たな消費文化を生み出しました。例えば寛延元年の夏、大坂の竹本座で初演された人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が、翌年には江戸の三座で歌舞伎として競演され、大勢の観客を集めました。また町人の間では、歌舞伎役者・沢村宗十郎を真似た宗十郎頭巾が流行し、上野不忍池畔には出合茶屋、揚弓場、講釈場など、新たな遊興産業も出現しました。

とはいえ、「米価安の諸色高」は、武家層にとっては、俸禄の目減りとなりましたから、幕府は新たな対策として、町人の奢侈行動の規制に出ました。寛延元年(1748)3月には、流行しはじめていた女羽織の着用を禁止し、また寛延2年5月には、江戸町奉行が町方の婦女が菅笠の代わりに青紙張りの日傘をさすことも禁じています。さらに宝暦2年(1752)6月には、不忍池畔の出会茶屋59軒と抱え女を置く家などを廃業させ、翌3年8月には、町方での銀道具の流行をおさえるため、材料となる灰吹銀や潰銀などを、銀座以外で売買することを禁止する達しも出しました。

こうして幕府は諸色高の抑制に努めましたが、宝暦3年(1753)は豊作となり、秋口から米価がさらに下落しました。そこで、幕府は再び倹約令を発して奢侈を禁じるとともに、1000石以下の旗本・御家人の苦境を救済すべく、翌々年からの十年年賦の返済を条件に、彼らに貸付金を与えました。

他方、宝暦4年(1754)11月には、さらに米価を上げるため、正徳5年(1715)に出されていた酒造制限令を撤廃して、酒の生産量を元禄10年(1697)の水準へ復活させることを決めました。この政策転換によって、新酒・寒造とも醸造は自由化され、新規営業も管轄地の奉行や代官に届け出るだけで容易に許可されるようになりました。

ところが、宝暦5年(1755)の夏、奥羽地方に雪が降るという大冷害が発生し、米価は一変して高騰したため、同年12月には、幕府領および諸大名の備蓄米である囲籾(かこいもみ)うち、1年分を米問屋に払い下げるように命じました。翌年6月になっても、なお米価の騰貴が続いていたため、米問屋による買占めや高値販売を厳しく禁止しました。だが、同年の秋は一転して豊作となり、今度は米価が下がったため、必要な米の買い置きは認めるように変更しました。

このように当時の石高経済は、気候変動に伴う米穀生産の増減と町人層からの需要増加による諸色高に翻弄されて、大きく揺れ動いています。

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