カテゴリー「4章 濃縮対応の「明和~天明」期」の記事

2011年3月 9日 (水)

田沼政策・3つの利点

田沼政権が取り組んだのも、やはりこうした課題でした。

 江戸時代中期の社会では、石高経済という再配分制度と、家族・親族や村落・町内などの相互扶助という互酬制度の、2つの社会制度が機能しているだけで、すでに伸びはじめていた商業や市場という交換制度は、なお未公認の状態でした。

このアンバランスを解消するため、田沼政権は、商品経済や金融経済など交換・市場制度を積極的に公認することで、再配分制度と互酬制度との間に、新たなバランスを作り出していきます。

 農村においては豪農の再編成を通じて商品生産を掌握し、都市においては座・株・仲間・会所などの許認可で商品の生産・流通を把握するとともに、それぞれに対して冥加・運上金の徴収という、新たな税源を育成したのです。

そのうえで、交換・市場制度を育成するために、新田開発、印旛沼開発、蝦夷地開発計画などで農地の再拡大をめざすとともに、鉱業、朝鮮人参、白砂糖、輸入品の国産化など、次の時代を担う、新たな産業の振興をめざしました。あるいは衰退状態であった長崎貿易で金や銀の輸入を増やしたり、その対価となる銅や俵物の生産を拡大しました。

こうした諸政策は、かなり大胆で画期的なものでしたが、それでもなお、かなりの進展を見せた背景には、次の3つの利点があったからでした。

1つは、その発想や政策が、従来の常識や通念を根本からひっくり返ものであったことです。石高経済からの脱出や商業資本の導入といった政策は、それ以前にも生まれていましたが、幕府の政策に実際に導入したのは、田沼が初めてでした。

2つめは、勘定奉行所の官僚を巧みに操縦したことです。勘定奉行所は財政、経済、司法を担う事務方役人の勤める役所ですが、それがゆえに能力如何によっては、下級官僚から昇進して、勘定吟味役や勘定奉行にまで上り詰めることが可能でした。

 明和~天明期のような、財政が悪化した時代には、複雑で難解な財務運営を求められますから、経理の才、功利の才に長けた役人が頭角を現してきます。意次はそうした役人を、身分の上下を問わず、積極的に活用することで、斬新な政策を推進しました。

3つめは、豪農や豪商からの積極的な献策を取り上げたことです。新たな税収源として、冥加・運上金制度を新設しましたが、その対象となった団体のほとんどは、幕府の指定ではなく、豪農や豪商など農民・町人層からの献策によったものでした。意次は、財政改善のためのアイデアもまた、幕府の内部にこだわらず、広く全国民に求めたのです。

このような卓越した発想力と統治能力こそ、田沼時代という、前例なき時代を創り出した原動力だったといえるでしょう。



(4章を終わります。ご意見、ご感想があれば、コメント欄へどうぞ)

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2011年3月 8日 (火)

制約社会に対応する

田沼政権が実施した主要政策で生み出された社会は、およそ以上のようなものです。

それゆえ、従来の社会・経済史などでは、年貢米払い下げ価格を基準とする石高経済体制に中に、折から勃興してきた商品経済を取り入れるという、いわゆる「重商主義」だった、と位置づけられています。

しかし、より長期的にみると、それらは、幕府財政の改善という、短期的な目標を超えて、集約農業文明による人口容量が限界に達した状況の中で、それに適応した、望ましい社会構造をいかに作り出すか、というものでした。

望ましい社会構造とは、どういうものでしょうか。それは多分、文明・技術や社会・経済が変わる中で、伝統的な文化や習俗などを守りつつ、新たな制度や体制をどのように組み立てていくか、ということではないでしょうか。

経済人類学者のK・ポランニーはその著『大転換』のなかで、社会を統合する制度には、互酬(義務的な贈与関係や相互扶助関係)、再配分(権力への義務的支払いと権力からの払い戻し)、交換(市場における財の移動=市場経済)の3つがあると指摘しています。

 この視点にたてば、望ましい社会制度とは、互酬、再配分、交換の3つの制度がほどよくバランスしている社会ということになるでしょう。

それは、家族や集落の相互扶助だけに頼る互酬中心社会、社会主義国家や福祉国家のような再配分至上社会、企業や経営者だけが闊歩する市場経済社会のいずれの方向にも、1つだけに偏るのではなく、3つの制度を3つとも存続させながら、それぞれのバランスをとっていく。あるいは、移りゆく時代の変化に応じて、それぞれの内容を変換していことを意味しています。

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2011年3月 7日 (月)

濃縮社会が生まれた

以上で見てきたように、田沼政権の諸政策は大胆な発想転換の下に展開されていますが、それゆえに必ずしも成功している訳ではなく、失敗もまた重なっています。

にもかかわらず、明和~天明期(1764~88)の20数年間は、延享~宝暦期の不機嫌な時代を脱して、庶民が豊かな暮らしを楽しみ、文化や芸術が充実する社会になりました。その意味では、縮みながらも濃くなる、いわゆる「濃縮社会」の典型といえるでしょう。

明和~天明期には、商品経済の拡大で庶民の暮らしも大きく変わり、新たな消費や文化が生まれましたが、こうした動きに田沼政権はあえて統制を行なわず、むしろ自由放任政策をとりましたから、芝居、遊興、風俗から学問、文芸、美術まで、まことに多彩な社会現象が展開されています。

江戸の町には、従来の上方文化に代わって、新しい江戸文化が興隆しました。その先頭に立ったのが、先に述べた「十八大通」です。遊里や芝居小屋のパトロンになって、髪形、言葉使い、所作などでも「蔵前風」とよばれる、独自の様式を創り上げ、「江戸っ子」「通」「いき」という言葉を広めました。

大通の1人、大口屋治兵衛暁雨は、江戸っ子の象徴「花川戸助六」に自らを擬して、吉原で豪放な大尽ぶりをみせつけ、2代目市川団十郎の支援者となって、舞台上の助六に自らの衣装や所作をまねさせました。黒羽二重の無地の小袖に紅絹裏、浅葱の襦袢、綾織の帯、鮫鞘の刀に桐の下駄という、まことに〝いき〟なものでしたが、これはそのまま現代の歌舞伎に引き継がれています。

こうした風潮に乗って、新たな風俗や衣装が生まれました。衣類・装飾品では、女性向けの青紙で張った日傘、丁子茶色、花簪し、木綿浴衣の藍がえし、富三染中形の浴衣、鯨帯、女芸者の振袖など、男性向けの夏合羽、表無地裏模様、細身脇差、丈短の蝙蝠羽織、大坂人形遣い風の長丈羽織などが流行しました。

食べ物では、土平飴、阿多福餅、大福餅、大仏餅、浅草餅、いくよ餅、軽焼、蕎麦切、船切、酒中花、しっぽく、生簀鯉、麩、あは雪なら茶、煎餅、塩瀬饅頭、色紙豆腐、芝三官飴などに人気が集まりました。

 外食・料理屋も増加し、寄り合い茶屋では浅草の並木富士屋、深川の西之宮、洲崎の望汰欄など、料理茶屋では葛西太郎、大黒屋、武蔵屋、枡屋など、麹町獣屋、屋台見世としてすし、蕎麦、おでん、燗酒、てんぷら、鰻の蒲焼を扱う店が出現しました。

流行歌では、江戸節、河東節、長唄新内節などが、さらに新たな遊びとして、伊勢お蔭参り、投扇、投壷、二挺鼓なども流行しました。つまり、当時の町人文化は、表面的な華麗さを「野暮」とみなし、裏側の抑えられた趣向を「粋(すい)」「通」「いき」として尊ぶ、成熟した美意識に裏付けられたものでした。

この成熟した美意識がさらに優れた絹織物、陶磁器、漆器、細工物、印籠・根付などの消費文化を生み出していきます。

 新たな消費文化の拡大は当然、江戸経済にも好況をもたらしました。その成果を積極的に活用して、赤字に悩んでいた幕府財政を10数年にわたって黒字に変えていったのが、卓抜した指導者、田沼意次だったのです。

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2011年3月 4日 (金)

第十政策=都市・町人を救済する(その2)

(第十政策の続き)

一方、このころから、旗本・御家人向けの蔵米を担保にした高利の貸付で財をなし、豪奢な暮らしぶりを誇る札差が台頭してきました。

 享保9年(1724)株仲間が認許され、安永7年(1778)に江戸市中で109軒に限定されたころから急速に成長しました。札差の貸付利子率は年18%程度で、市中の質屋等より安かったのですが、さまざまな不正利殖で利潤を増やしたからです。

 安永・天明期(1772~89)になると、江戸豪商の典型といわれるようになり、18人の大通人、つまり「十八大通」と称される、蔵前風の豪勢な風俗まで生み出します。その札差仲間に対しても、幕府は安永8年(1779)6月、1万両を貸付けています。

しかし、天明期に入って飢饉が続発するようになると、米価も一転して上昇しましたから、江戸や大坂などの大都市では困窮する町人や無宿人が増加してきます。これに対して、田沼政権は、治安の維持とともに窮民の救済を実施しています。

 天明4年(1784)4月には米の売り惜しみを禁じる一方で、徒党・打ち壊し禁止令を出し、天明6年(1786)には、江戸の困窮者に対して、救米6万俵と救金5万両を出しています。

 また安永7年(1778)4月から、江戸府内の無宿者を捕らえて、佐渡鉱山へ送っていましたが、天明4年(1784)になると、米価高騰で流民が急増したため、深川に6万坪の無宿小屋に作って収容しました。ところが、人減らしから奉公人の解雇が相次いだため、この小屋は充満し、疫病も加わって死者が発生するほどでした。

 そこで同年、穢多・非人頭・弾左衛門の囲内(浅草新町)に介抱小屋を設置し、無宿行き倒れ人722人を収容しました。これらの政策は、寛政2年(1790)、「鬼平」こと長谷川平蔵の建議で開設された「佃島人足寄場」に継承されていきます。

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2011年3月 3日 (木)

第十政策=都市・町人を救済する(その1)

第十は都市や町人への金融・救済対策でした。


 商品経済の発展に伴って、江戸や大坂などの大都市では、新たな豪商が生まれ、新たな消費文化が生れましたが、その一方で、社会の変化に追いつけない困窮町民もまた増加し、米価高騰の折にはしばしば打毀しを起こしていました。

これに対して、田沼政権はまずは町人への金融政策で対応しました。宝暦10年(1760)3月、大坂の町人3名の申請を受けて、石町に庶民を対象とする金融機関「銭小貸会所」を設置しました。

 貸付対象は北組・南組・天満組と大坂近在の町人や百姓で、銭5貫文までを90日に限って融通し、利子は元金1貫文につき月23文、うち15文を金主、8文を会所に配分しました。当初は順調に運営されましたが、会所経営者の不正、銭相場の下落、返済滞りの増加などにより、天明8年(1788)に廃止されました。

さらに明和8年(1771)、幕府は町民向けの小口融資を仲介する機関として、大坂に「銀小貸会所」を認可し、同年12月には江戸の町民に対して5万両を年1割の利子で、安永5年(1776))2月には町年寄に対して2万両を年1割の利子で、6月には町人に対して1460両を同じ利子で、それぞれ貸付けています。

また明和4年(1767)閏9月、幕府は大坂に「家質会所」3カ所を認可しました。幕府の認可を受けて、家屋敷を質物(家質)とする貸借証文を保証する「奥印」を押し、銀1貫目につき1カ月銀2匁ずつを、貸方・借方の両方から受け取ったうえ、会所自体も貸付業務も行いました。

 さらにこの会所を発展させて、同年12月には、江戸町人の申請で大坂市中に「家質奥印差配所」を設置しました。家屋敷・諸株を質物とする金銀貸借証文にはすべて差配所の奥印が必要であるとして、世話料は銀100匁につき貸方4分、借方6分の、合わせて銀1匁を半年毎の証文書換え時に徴収するというものでした。

この背景には、生産者・仲買人の間で前渡し金による仕入れ方法が拡大し、回転資金として家質が浮上したこと、激増する金銀訴訟への対応が求められたこと、さらには田沼政権による冥加金増徴政策が重なっていました。

 しかし、貸借利子に世話料が加算されて負担が重くなるうえ、借金額の公示で信用が傷つきましたから、大坂町人の間から激しい反発が起き、翌年1月には関係者宅50~60軒が破壊される騒動となったため、紆余曲折を経て、安永4年(1775)8月に廃止されています。(続く)

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2011年3月 2日 (水)

第9政策=農村・農民を救済する

第9は農村や農民の救済対策でした。

 宝暦・明和期(1751~1771)になっても、農村では享保期以来の百姓一揆が依然として続いていましたが、その目標は多様化し、従来からの年貢減免に加えて、折から拡大してきた商品物資の、生産や流通に関する統制・独占への反対騒動や、村役人の地位をめぐって旧村役人、村方地主、一般農民が対立する村方騒動も急増しました。

これに対して、田沼政権の採った政策は、積極的な救済というよりも、消極的な抑圧でした。宝暦12年(1762)5月には、百姓が江戸に集合したり門訴を行なうことを厳禁する布告を出しています。商品経済を推進しようとする意次にとって、農村・農民対策は後回であったと思われます。

しかし、明和元年(1764)8月、幕府は中山道の伝馬助郷役不足対策と、翌年に迫った日光東照宮百50回忌の交通量増大対策として、武蔵、上野、信濃の28宿の村々に対し、増助郷課役の方針を打ち出したところ、閏12月に百姓20万人以上が蜂起し、江戸時代最大の一揆「伝馬騒動」へ発展しました。

 幕府は江戸の諸門を固めて防衛体制を強化したうえ、関東郡代に命じて増助郷の中止を触れさせて、なんとか一揆を鎮圧したうえで、主謀者の村名主を獄門に、百姓369人を処罰しました。

また明和5年(1768)に大坂や佐渡で一揆が起きたため、明和6年(1769)正月に、関西の百姓の徒党強訴には実力で鎮圧することを命じ、2月には遠国の百姓の徒党強訴は、いかなる要求でも受理せず処罰することを決めました。

 さらに明和7年(1770)2月になると、諸大名・旗本に対して、百姓の徒党強訴を強硬に取り締まるように命じ、4月には諸国に徒党強訴・逃散禁止の高札を掲げて、訴人には賞金銀百枚を与える旨を布告しています。

このような事情で荒廃する農村では、人口もまた減少しましたから、幕府は明和2年(1765)10月に間引き禁止令を出し、また安永6年(1777)に百姓の江戸出稼ぎを禁じたうえ、新田開発を促しています。

だが、安永・天明期(1772~1788)になると、世界的な異常気象で旱魃、洪水、噴火、冷夏などが続きました。とりわけ、天明3年(1783)3月の岩木山噴火、7月の浅間山噴火で東日本各地に火山灰が積もり、日射量の低下で冷害も拡大し、天明4年(1784)には各地で飢饉が広がりました。

 米の栽培よりも利益の高い商品作物を栽培する農家が増加し、米は他地域から購入する農村も増えていましたから、凶作となると、その被害が増幅されたのです。

そこで、幕府は農村救済対策として、天領の年貢率を下げ、宝暦・明和期の39~37%から、安永期には34%台、天明期には33%台へ落としました。

 また天明4年(1784)7月には、関東郡代伊奈半左衛門に命じて、武蔵・下総一帯に御救米を配らせています。さらに天明6年(1786)には、被害の多かった東日本の18藩に、飢饉対策として数万両の拝借金を貸与しました。

こうした混乱の中で、天明6年の秋、意次は失脚しましたが、大飢饉は村から町へと広がって、天明7年(1787)になると、諸国で米騒動が勃発しました。

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2011年3月 1日 (火)

第8政策=大名・旗本を支援する

第8は石高経済が破綻する中で、窮地に陥った大名や旗本を救済する諸政策です。

ここでも田沼政権は伝統的な支援方法を捨てて、商人層の活用を進めました。

明和8年(1771)4月、幕府は5カ年の倹約令を発するとともに、財政支援のために、大名・旗本などに貸与する拝借金制度を停止しました。

 拝借金とは、領内の凶作、自然災害、火災などで経済的な苦境に陥った大名を救うため、幕府が無利子の年賦返済で貸与するもので、将軍と大名の関係を緊密にする金融制度でした。そうした制度を、倹約を理由に原則として停止し、さらに天明3年(1783)の7カ年倹約令では、全面的に停止しました。

だが、困窮する大名・旗本が増えてきましたので、幕府は拝借金に代えて、天明3年(1783)に新たな御用金政策を打ち出しました。宝暦11年(1761)の御用金令は、大坂の豪商の資金で市中から米を買い上げる米価対策でしたが、天明の御用金令は、大坂豪商の巨額な資金を大名・旗本への金融や幕府の利益に活用するのが目的でした。

この年、大坂町奉行所が豪商に命じた御用金令は14万5000両にのぼりましたが、宝暦とは3つの違がありました。その1つ両替商に出金を命じるだけで、資金は両替商の手元において、公金として大名や旗本に貸し付ける、2つめ幕府が大名や旗本の返済を担保し、両替商の債権を保証する、そして3つめ債務保証によって幕府は3600両の利子収入を得る、というしくみでした。

天明5年(1785)になると、この制度を強化するため、幕府は新たな御用金令を発しました。返済の停滞を避けるために、確実な抵当・担保として大名・旗本領の田畑を設定し、返済が滞った時には、幕府代官が抵当の田畑を管理して、その年貢から金利を確実に返済させる、という強力な保証でした。

 幕府は豪商たちに、大名・旗本領の田畑の年貢を担保にとり、貸した金は元利ともに確実に回収できるから、安心して融資するように説得したのです。

新融資制度では、貸付金の利息が7分、そのうち1分を幕府に上納するので、幕府は最大で6万両を手に入れることができる計画でした。しかし、天明の御用金令に対しては、豪商たちが「貸し渋り」という手法で抵抗したため、発令して1年も経たない、天明6年10月に中止されました。

御用金令が失敗したため、田沼政権は新たな金融政策として、全国御用金令とそれを財源とした貸金会所設立を構想しました。天明6年(1786)6月、幕府は「金詰まりで困っている大名や旗本に融資する」という理由で、全国御用金令を出しました。

諸国の寺社・山伏は、その規模などに応じて最高15両、全国の百姓は持高100石につき銀25匁、全国の町人(地主)は所持する町屋敷の間口1間につき銀3匁を、それぞれ天明6年から5年間、毎年出金せよ、と命じたのです。大坂の豪商に限らず、全国の百姓、町人、寺社に「広く薄く」御用金をかける、という計画でした。

こうして集めた御用金に幕府が資金を加えて大坂に貸金会所を設け、会頭が融資を希望する大名・旗本に年7朱(7パーセント)の金利で貸し付けます。その担保には、大名・旗本が発行した米切手か、あるいは借金額に見あった大名・旗本領の村高をあて、返済が滞った場合には、米切手を換金するか、それらの領地を幕府の代官が管理して年貢で返済する、という方式でした。

 年利7朱はかなり低利ですが、返済不能の場合も確実に元利を回収できるしくみになっていましたから、貸金会所はいわば大名・旗本向けの幕府銀行といえるものでした。

2つの計画がうまくいけば、70万両を超える金額が集まる見込みでした。だが、これについても全国民からの猛烈な反発にあって、わずか2カ月足らずの8月24日に中止されました。

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2011年2月28日 (月)

第7政策=貿易を見直す

第7は貿易政策の見直でした。

 当時の国際貿易の課題は、貴金属の輸出を抑えて、俵物(漁業加工物)の比重を増やすことでした。

江戸時代前期の貿易では、日本産の金銀、とりわけ銀の輸出が中心であり、唐船やオランダ船による巨額の銀流出が続きました。17世紀の中葉になると、金銀とも産出量が減少したため、幕府は銅の輸出を増加させました。

 だが、正徳5年(1715)1月、幕府は新井白石の立案した「海舶互市新例」で、銅についても輸出を抑制し、代わって再生育可能な漁業加工物(俵物)の輸出促進に転換しました。この政策は享保~寛延期にも引き継がれていました。

明和~明和期になると、田沼政権は、先に述べたように、新たな貨幣の素材として銀が必要でしたが、国内の生産量だけでは無理でしたから、宝暦13年(1763)に中国から、明和2年(1765)にはオランダから、それぞれ銀を輸入しています。

これには当然、対価となる輸出商品が必要でしたから、田沼政権もまた海産物の輸出増加をはかりました。銅の流出を極力抑えながらも、貿易総額を維持するには、海産物の輸出が唯一の手段でした。白石の唱えた「鉱産資源保護政策」は、田沼によって「重商主義的貴金属輸入政策」へと、微妙に転換されています。

そこで、田沼政権は、俵物の生産・輸出を積極的に奨励しました。当初は個々の商人から別々に購入していた俵物を、延享元年(1744)からは請負商人を指定して独占的に買い集める方式へ切り替え、さらに天明5年(1785)には、長崎会所自らが産地に赴く「直買方式」へ移行しました。

 元禄11年(1698)に設立された長崎会所は、中国、オランダ貿易を独占し、利益の一部を幕府へ運上金として納める組織ですが、この方式の採用で、俵物についても、数量の確保、価格の安定、輸送体制の整備など、効率よい集荷が進められるようになりました。

直買方式」では、大坂・箱館・長崎に俵物役所を、また下関・江戸に指定問屋をそれぞれ設置したうえ、全国に世話人や買い集め人をおき、会所の役人が浦々をまわって即金で買い上げるしくみを作り上げました。

 漁業者に対しても、上納責任高(請負高)を予め決めたうえで生産資金を前貸したり、良好な生産者や漁村に対する褒章金制度や技術的な指導対策などを次々に打ち出して、生産量の拡大に努めました。

それでも、長崎会所の経営はかなり困難だったようです。輸入した外国金銀を幕府へほぼ原価に近い価格で上納していましたから、利潤はほとんど出ないうえ、銅や俵物は、国内の生産コストからみて異常なほど安い価格で、外国商人へ売り渡されていましたから、損失が出こともしばしばありました。これらの損失は、会所が輸入品の国内販売であげた利益やその他の関連機関からの支援で補填するという有様でした。

銀の輸入は銀貨鋳造のため、また主要輸出品の低価格は輸入量の維持のため、というように、それぞれが幕府の意図に基づくものでしたから、長崎会所という組織は貿易企業というよりも、公儀御用を勤める幕府の一機関であったといえるでしょう。

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2011年2月25日 (金)

第6政策=新しい産業を振興する

第6は農業生産を補完する、新たな産業の振興でした。

 田沼時代は、石高経済が限界化し、商品経済が拡大する中で、幕府の財源となるような、新たな産業の振興が求められていました。こうした要請に応えて、意次がまず取り組んだのは、鉱山の開発でした。

田沼時代には、第4政策で述べたように、明和2年の五匁銀や明和9年の南鐐二朱銀を鋳造する素材として、銀が不足していました。そこで、田沼政権は、宝暦13年(1763)には中国からの銀3000貫を輸入し、明和2年(1765)にはオランダから初めてヨーロッパの金銀銭も輸入しました。

その見返りには銅の輸出が必要でしたから、幕府は国内銅山の開発に取り組み、宝暦13年(1763)3月、未採掘や休止中の銅山を調査して再操業するように各藩に命じました。

 翌明和元年(1764)5月には、秋田藩の阿仁銅山の上地令を出しました。だが、これは同藩の運動と意次の働きかけで撤回されています。それでも、銅が不足しましたから、銅で作られていた銭を鉄や真鍮に変えるため、明和2年(1765)ころから、先に述べたように鉄銭や真鍮銭の鋳造も開始しています。

続いて幕府は鉱物資源の流通統制にも取り組み、明和3年(1766)に大坂に銅座を設立して、諸国で採掘された銅を一手に集荷させたうえ、独占的に販売して、銅の増産を奨励しました。

 安永元年(1772)には、銅・鉄・真鍮・石灰・明礬の会所を各地に設置して幕府の専売とし、安永9年(1780)には、大坂に鉄座・真鍮座を新設するとともに、銀座・真鍮座は江戸・京の銀座が取扱うことにしました。明和4年(1767)には、金・銀・銅・鉄・亜鉛鉱山の新規開発や既存鉱山の再開発を促し、天明6年(1786)には、大和金剛山の金・鉄採掘を命じました。

もう一つ、意次が積極的に取り組んだのは、急速に発展してきた蘭学を応用して、輸入品を国産化することでした。

 宝暦11年(1761)、意次は博物学者の平賀源内を起用して、下剤・利尿剤として用いる芒硝(硫酸ナトリウム)調査のため、伊豆半島へ派遣しました。明和7年(1770)には2度めの長崎行きを斡旋し、その帰途、摂津多田銀・銅山や大和吉野の金峰山の調査や試掘を行なわせています。

源内は安永2年(1773)、秩父中津川鉄山の開発に関わり、秋田藩に招かれて院内銀山や阿仁銅山の指導にも当りました。多彩な才能を持つ彼は、明和元年(1764)2月に火浣布(石綿)を創製し、安永5年(1776)11月には、日本で初めてエレキテルを完成させています。

宝暦13年(1763)には、本草学者で町医者の田村藍水を幕府の医官に登用して、朝鮮種人参御用を命じ、江戸飯田町に人参製法所を新設して、国産人参の栽培や製薬に当たらせました。

 また同年、神田紺屋町に人参座を設けて、人参製法所製の人参販売を独占させ、関東、東海、大坂で34軒の薬種商を下売人に指定しました。

 明和元年(1764)5月には、奥医師を集めて、意次自ら朝鮮人参の国産化を喧伝し、安永7年(1778)閏7月には、武蔵国他42カ国の希望者に、朝鮮人参の種を頒布しています。

一方、藍水は、幕府の許可を得て、明和3年(1766)、オランダ人より譲り受けた草綿実の種を元に、異国風に染めあげた更紗(斑布)を製造し、明和4年(1767)には葉は食用、種からは油のとれる闍婆菜(ジャガタラナ)を栽培して将軍に献上しました。

 明和8年(1771)になると、藍水はオランダから薬草と野菜の種を輸入し、安永2年(1773)には綿羊の飼育も許可されています。いずれも意次の支援を受けて、新たな産業開発に取り組んだものでした。

また意次は明和3年(1766)、武蔵大師河原村の名主・池上幸豊を上屋敷に招いて、砂糖製造の実演を行なわせ、明和5年(1768)には関八州その他へ、甘蔗栽培の製法を伝授する巡回を許しています。

 明和6年(1769)になると、
甘蔗砂糖の植え付け場所を池上へ下げ渡し、天明6年(1786)には製法伝授のため、京・大坂・畿内の農村を巡回させました。こうした努力によって、天明期には各地で甘蔗が栽培されるようになりました。

以上のように、意次は鉱山開発、朝鮮人参、白砂糖、輸入品の国産化などを積極的に推進し、殖産興業に努めています。

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2011年2月23日 (水)

第5政策=農地・国土を拡大する

第5は農地・国土の開発・拡大による農業生産の再興でした。

 戦国時代から一貫して拡大を続けてきた農地開発は、元禄期前後になると、開発適地の限界化で停滞するようになり、代わって農業政策の中心は土地生産性の最大化をめざす精農主義へと移行していました。

 ところが、徳川吉宗は年貢増徴をめざして、改めて新田開発に取り組み、享保7年(1722)7月、「新田開発に関する高札」を江戸日本橋に掲げて、資本力のある商人層の投資を求めました。この政策によって新たに開発された新田は、20年ほどの間に3万3000町歩、石高で97万石に達しています。

田沼政権もまた吉宗の新田投資策を継承し、明和元年(1764)12月、江戸町人の希望者に下野・下総・常陸の荒地を下付して新田開発を奨励し、安永元年(1772)には、町民からの開発願を地元民より優先するように改正しました。さらにこの政策を本格化させ、下総国印旛沼・手賀沼の開拓や蝦夷地の開発事業にも取り組んでいきます。

印旛沼・手賀沼の開拓については、寛文3年(1663年)や享保9年(1724年)に、2度ほど試みられていましたが、難工事や資金難で中断されていました。

 田沼政権もまたこの開拓に挑戦し、新たな水路を掘削して、印旛沼の水を東京湾に流し、沼周辺に新田を拓くとともに、運河による輸送路を開通させたいと考えました。

安永9年(1780)、幕府代官・宮村孫左衛門は、地元の名主2人に指示し、「印旛沼新堀割御普請諸目論見帳」を作成させましたが、総費用は6万660両に達しました。宮村はこの計画を見直して、費用を3万6640両にしぼったうえ、完成時の新田3900町歩の8割を出資者に、2割を地元世話人に与えるという条件で、大阪と江戸の2人の商人から出資を取り付けました。

天明2年(1782)7月に勘定奉行所で実施を決定し、諸準備のうえ、天明4年(1784)に測量をはじめ、同5年(1785)に工事に着工、同6年(1786)の初夏までに6割ほど進みました。

 ところが、7月、利根川が大氾濫して印旛沼に流れ込み、工事は壊滅的な打撃を受けました。3年前の浅間山大噴火による大量の降灰で、利根川の川底が浅くなっていたからです。それでも、幕府は工事を続行しようとしましたが、同年8月、田沼の失脚によって中止されました(以上、大石慎三郎『田沼意次の時代』)。

次に田沼が取り組んだのは、蝦夷地(北海道)の開発事業です。この事業は当初、ロシアとの貿易振興を目的にしていましたが、最終的には新田開発に重点が移されています。

天明3年(1783年)正月、仙台藩医・工藤平助は、意次の用人・三浦庄司に依頼されて『赤蝦夷風説考』を書き上げ、赤蝦夷、つまりロシアの南下策を警告しつつ、開港交易と蝦夷地の開発を献策しました。

 これを読んだ意次は、その具体化を勘定奉行・松本秀持に命じましたが、折からの凶作で飢饉が広がり、各地で打ち壊しや一揆が続発し、7月の浅間山大噴火で政情不安が高まっていましたから、準備はかなり遅れました。

天明4年(1784年)5月になって、松本はようやく「赤蝦夷の儀につき申し上げ候書付」という蝦夷地開発の方針案を意次に提出しました。その案では、蝦夷地の金銀銅を採掘し、それをもとにロシアとの貿易を拡大して、利益を獲得するという、鉱山開発と貿易拡大に重点がおかれていました。

 田沼の承認を受けて、松本は普請役や下役などの調査団の構成と調査の範囲、利用する船の調達や請負業者などについて計画を進めました。廻船方御用達の商人に3000両の拝借金を与えて、アイヌとの交易を請け負わせ、その収益により幕府の調査費用を軽減するという方策も生み出しました。

天明5年(1785)4月、佐藤玄六郎青島俊蔵ら5人の普請役に最上徳内らを加えた、第1次蝦夷地調査隊は、松前を出発し、東蝦夷地からクナシリ島に行く団員と、西蝦夷地からカラフトに行く団員の二手に分かれて調査をはじめました。

 翌年2月、佐藤玄六郎は、第1回の調査報告「蝦夷地の儀是迄見分仕り候趣申し上げ候番付」を松本に提出しました。それを読んだ松本は、鉱山開発と貿易拡大が困難なことを知り、2月6日に新田開発を中心とした、新しい蝦夷地開発案を提案しました。

新案によると、蝦夷地本島の面積の10分の1、116万64OO町歩(約116万6千ヘクタール)を新田化できると推定し、この土地の収穫高を内地の半分(1町歩につき5石)と仮定すれば、石高は583万2000石と見積もりました。当時の全国の石高、約3000石が一挙に2割も増加し、さらに収穫量が内地並みになれば、4割も増えという、壮大な目論見でした。

 この計画を実現するには、約1O万人の人手が必要となるため、アイヌ人の活用に加えて、穢多頭弾左衛門配下の穢多・非人7万人を移住させることまで計画していました(以上、藤田覚『田沼意次』)。

こうして、蝦夷地開発事業では、新田開発策や農業開発策が浮上しました。同年夏の印旛沼開拓中止で新たな農地開発を求めていた田沼は、計画の実現に向けて諸準備をはじめましたが、天明6年(1786年)8月の失脚で、これまた中止されました。

しかし、田沼の採用した蝦夷地開発構想は、北海道を日本の富源にするという発想を、初めて具体化したものでした。これほど大胆な政策が一気に進んだのは、本土での新田開発が限界に達した以上、新たな土地に進出すべきだ、という考え方が幕府の中枢部に広がっていたからです。

 藤田覚も「この考え方は、勘定奉行所を中心にして老中を含む幕府のかなりの部分にまで支持されて浸透し、田沼時代の次の寛政の改革では、意次の政策の多くが否定されてしまうものの、幕府内部の底流で生き続けた」と述べています。

これを裏付けるように、田沼の蝦夷地政策は、寛政11年(1799)の東蝦夷地の幕府直轄化、開発政策の断行、文化4年(1807)のカラフト、エトロフ、クナシリ鳥を含む全蝦夷地の幕府直轄化となって実現し、その後も紆余曲折を経て、文政4年(1822)に中止されるまで、脈々と続いていきます。

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