カテゴリー「大震災に思う」の記事

2011年4月 8日 (金)

コンデンス・シティーをめざせ!

 津波被災地の復興策として、コンパクト・シティーが取りざたされています。丘陵地にコンパクトな市街地を造り、そこから海浜部の港や漁業施設に働きに出る、というものです。町を低地から高地に移し、安全性を優先するという発想は、それなりに頷けます。

  だが、コンパクト・シティーで本当にいいのでしょうか。コンパクト・シティーのモデル都市・青森市の場合、もし陸奥湾を大津波が襲ったとしたら、都心部は壊滅状態になるでしょう。中心部に諸機能を集めていたがゆえに、被害はいっそう拡大されることになります。

私は以前から、都市学者の多くが賛同する「コンパクト・シティー」に疑問を呈してきました。詳しくは拙著『増子・中年化社会のマーケティング』で述べていますが、本質的な次元で、この発想にはかなり疑問があります。・・・以下、現代社会研究所サイト

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 6日 (水)

なぜ低地に町を造ったか?

三陸海岸を走ると、あちこちで津波の記録碑に遭遇します。ここまで波が来たという警告碑や被災者の慰霊碑が、道路脇や山際に現れます。津波の被害に敏感な地域として、郷土の記憶が幾重にも蓄えられています。

今回の大震災に際しても、高地に設けた住居や避難場所によって、被害を避けたケースが幾つか報告されています。宮古市重茂半島姉吉地区の石碑「ここより下に家を建てるな」や、大船渡市綾里白浜集落の「昭和三陸津波の到達点より高い場所に家を建てよ」という教訓が、被害を最小限に抑えた、とマスメディアが報道しています。

だが、こうした遺訓が適切に活かされたかといえば、ほんの一部の事例にすぎません。この地域の都市の大半は、海際の低地に造られており、それがゆえに大津波に飲み込まれました。

なぜ私たちは遺訓を活かせなかったのでしょう。危険と知りつつも、なぜ低地に町を造ってしまったのでしょう。東北人は、いな、日本人はなぜ先人の記憶を活かせなかったのか、これは災害対応という次元を超えて、私たち日本人の文化の問題だ、と思います。・・・以下、現代社会研究所サイト

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 5日 (火)

東北の宿命か?

東北地方には、さまざまな形でお世話になってきました。振り返ってみると、1980年代初頭に青森のテクノポリス開発に関わって以来、同地の大学教授を兼務し、昨年、定年退職するまで、ほぼ30年になります。

この間、今回の被災地となった八戸、宮古、釜石、陸前高田、石巻、塩釜、仙台、亘理、いわきなどには、講演や調査、あるいは経営相談などで度々訪問しています。繰り返される画面上で、これらの町々が瓦礫に変わったのを見て、お世話になった方々のお顔が浮かびあがり、胸が張り裂ける思いです。

東北地方は、人口容量の限界ゆえに、“再び”多大な被害をこうむりました。“再び”というのは、1章で述べたように、集約農業文明によって日本列島の人口容量が3250万人の上限に達した江戸時代中期、この地方では大勢の人々が餓死しているからです。・・・以下、現代社会研究所サイト

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月 3日 (日)

人口容量の限界が露呈した

東日本大震災から3週間以上たちました。この間、悲劇的な事態をどのように受けとめるべきか、マスメディアやインターネットを通じて、著名人からブロガーまで、さまざまな感想や意見が飛び交っています。

 それらに接して、幾つかの意見には深く共感を覚えました。その一方でまったく見当はずれ、と指弾したくなるものも少なからずありました。「文明論を述べている時ではない」という意見など、幾分反発も覚えます。もっとも、その理由を考えてみれば、最終的には発言者の立場や思考回路に帰着しますので、あえて反論するまでもない、とも思います。

そうした意味で、ここに書くことも、的外れと批判されるかもしれません。大勢の行方不明者が未だに見つからず、大量の避難者もまた帰宅を阻まれている段階で、マクロな感想を述べるのは、あるいは不謹慎かもしれません。それを承知の上で、このブログを書き続けるために、どうしても述べておきたいことを、3つだけ述べようと思います。

最初に書きたいのは、現代日本の基本的な構造が、まちがいなく限界に達している、ということです。・・・以下、現代社会研究所サイト

| | コメント (0) | トラックバック (0)