カテゴリー「7章 集約工業文明へ向かって」の記事

2011年5月24日 (火)

再び人口増加社会へ

以上のように、工業後波を支える3つの要素は、これまでの粗放科学技術、粗放市場経済、無制約国際化から、集約科学技術、集約市場経済、選択的国際化へと転換されていきます。

 こうした転換によって、おそらく次の工業文明は従来の粗暴な次元を乗り越え、より成熟し洗練された科学技術、経済制度、国際関係へ進んでいくものと思われます。

これこそ「粗放工業文明から集約工業文明へ」、あるいは「工業前波から工業後波へ」の移行を意味しています。これまでの工業前波は工業文明の前半にすぎず、工業後波の開始に伴って、より成熟し、より完成された段階に入っていくということです。

こうした集約工業文明を、日本人の手で21世紀の中ごろまでに生みだすことができれば、21世紀後半の人口容量は再び拡大し、それにともなって日本の総人口も再び増加しはじめ、1億2800万人の壁を易々と乗り超えていくでしょう。

勿論、そのインパクトは日本に留まるものではありません。日本人が新たな文明の可能性を見つけだすことができれば、それは同時に、世界の総人口が80~90億人の壁を突破し、再び上昇をはじめることを意味しているからです。

こうした意味でも、工業前波の最先端を突っ走っている日本は、21世紀の最先進国として、まっさきに次の波動を作りだす役割を担っているのです。

以上で「平成享保のゆくえ」を、とりあえず終わります。ご愛読、ありがとうございました。別の形で、新コラムをはじめたいと思います。しばらくお待ち下さい。

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2011年5月23日 (月)

集約工業文明の3要素

こうした視点に立つと、集約工業文明とそれに基盤をおく工業後波のおおまかなイメージが見えてきます。おそらくそれは工業前波を支えていた科学技術、市場経済制度、国際協調主義(グローバル化)の3つを大きく変えていくことになるでしょう。

その方向を大胆に見通せば、「粗放科学技術から集約科学技術へ」、「粗放市場経済から集約市場経済へ」、「無制約国際化から選択的国際化へ」という変化に集約できます。

「粗放科学技術から集約科学技術へ」とは、科学技術の本質が変わっていくことを意味します。先に述べたように、現代の科学技術は、鉱物や化石燃料を〝爆発〟させてエネルギーを獲得するという〝粗暴〟な基盤に基づいています。

 パソコンやインターネットなどのソフトな技術でさえ、爆発エネルギーが提供する電力が途絶えれば、直ちに停止してしまいます。それゆえ、次の文明を支える科学技術は、もっと緩やかに抽出できるエネルギー源に基礎をおかなければなりません。

この方向を実現するにはさまざまな対応が考えられますが、太陽光、風力、水力、地熱などのエネルギーを直接採集して集約する、より「柔らかな」自然系エネルギーへの転換が1つの方向になるでしょう。

 つまり、「宇宙エネルギーが長期的に蓄積された化石燃料などを採集・消費する」文明をさらに進展させて、「採集圏域を増やして、化石燃料などをより効率よく採集するとともに、エネルギーの集約や育成を図る」文明へと転換していくということです。

「粗放市場経済から集約市場経済へ」とは、経済構造がより進化していくことです。現在の市場主義は、グローバル市場主義の乱暴な介入に国内経済が引っかき回されたり、競争激化によって貧富の格差が拡大するなど、いわば「粗暴な市場経済」の次元に留まっています。

 おそらく工業後波を支える経済制度はこうした欠陥を是正して、国際性と国内性の調和、市場性と象徴性の調和、そして価値と効能(私的有用性)のバランスなどに配慮した、より「柔らかな」体制をめざすことになるでしょう。

「無制約国際化から選択的国際化へ」とは、国際協調主義の方向が変わっていくことを意味しています。これまでの国際主義は、一国の国境を絶対視しつつ、そのうえでどの国とも平等につきあうという、いわば「粗っぽい国際主義」でしました。

 しかし、今後はその方向が微妙に修正されていきます。先に述べたように、21世紀の地球では人口が爆発的に増加して、2020~2030年ころには食糧・資源・エネルギーが不足し、環境汚染も深刻化します。

 このため、先進国、途上国を問わず、世界各地で物資の奪い合いや環境汚染のなすり合いなど、さまざまなパニックの発生するおそれが急速に高まります。

そこで、日本もまた、従来の野放図な全面的国際化を修正し、農業国との連携や資源保有国とのタイアップなど、互いに援助しあえる国々との間で、新たな連携をめざす選択的国際化を進めることが必要になってきます。

 その意味で、日本の外交目標は「無制約国際化から選択的国際へ」と転換していかなければなりません。

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2011年5月20日 (金)

次期文明を展望する(その2)

こうした傾向が今後も続くと仮定すれば、次の文明の方向をある程度予想することができます。それは、現在の工業文明の延長線上に現れる、より高度な工業文明、いわば後期工業文明とでも名づけられる文明の創造です。

現在の工業文明が前期と後期に分かれ、前期工業文明を引き継いだ形で、後期工業文明が新たに登場してくる。江戸後期に西欧から導入した前期工業文明を、国内でさらに継承・発展させて、もう1段階上の後期工業文明を創りだすといってもいいでしょう。

農業文明の発展過程になぞらえれば、前期の「粗放工業文明」から、後期はもう1段上の「集約工業文明」に移行していく。人口波動でいえば、工業現波が前波と後波に分れ、現在の波は粗放工業文明による「工業前波」、次の波動は集約工業文明による「工業後波」になっていく、ということです。

考えてみると、これまでの工業文明は〝粗放〟ならぬ〝粗暴〟文明でした。自動車が衝突したり、飛行機が落下すれば、人間もまた死んでしまうという、まことに「粗暴な技術」で成り立っています。

 エネルギー利用もまた、石油やウラン燃料を〝爆発〟させて採取するという「粗暴さ」に基づいています。経済構造ですら、グローバル資本主義の乱暴な行動に引っかき回されるという「粗暴な経済」の次元でした。

とすれば、次の集約工業文明は、この粗暴な次元を乗り越えて、より優雅な技術や経済の段階へ進んでいかなくてはなりません。

 これまでにも独自の新石器文明や集約農業文明を生みだしてきた日本人の資質を考えれば、欧米型の粗放工業文明をさらに改良して、より高度な集約工業文明を創りだす可能性は限りなく高いはずです。

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2011年5月19日 (木)

次期文明を展望する(その1)

農業後波の下降期を参考にすると、工業現波の今後がおぼろげながら見えてきます。

 6章では、2020年代以降の「平成明天」時代に、加工貿易体制による人口容量は徹底的に見直され、人口減少に見合った濃縮社会へ移行していくと述べてきましたが、その後の日本はどうなるのでしょうか。

もし人口を再び増加させようとすれば、21世紀の中葉から後半にかけて、人口容量をさらに拡大するような画期的な文明転換を、日本列島の上で起さなくてはなりません。

 人口容量とは〔自然容量×文明〕ですから、新たな容量を構築するには、新たな文明の創出が必要です。もしそれができれば、工業現波に変わる、新しい人口波動が開始され、その上限はおそらく現代の1億2800万人を超えて、2倍から数倍に達するでしょう。

新たな文明とはどのようなものになるか、人口波動説からみると、おおまかな方向が見えてきます。これまで人類が辿ってきた5つの波動を振り返ってみると、文明の進展には一定の法則がある、という推測が成り立つからです。それは次の3つです。

(1)世界波動においても日本波動においても、石器前波と石器後波、農業前波と農業後波というように、2つの波動がペアになっている。

(2)波動を支える文明も「旧石器文明から新石器文明へ」、「粗放農業文明から集約農業文明へ」と、継承・発展の関係を持っている。

(3)日本列島では、旧石器文明や粗放農業文明を大陸から受け入れ、次にくる新石器文明や集約農業文明を内発的に創造している。このことは、基盤となる石器文明や農業文明が、海外から渡来したものであることを示している。

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2011年5月18日 (水)

農業後波から工業現波へ(その2)

しかし、この動揺と停滞がやがて文化や学問を深化させました。享保期以降、約100年の間に医療や生産に役立つ実用の学問を求めて、いわゆる蘭学が興隆し、医学、物理学、化学から天文学や地理学、あるいは和算学や物産学にまで広く普及しました。

天保期になると、こうした西欧的知識を応用して、薩摩や長州といった「雄藩」では、手工業(マニュファクチャー)を急速に発達させ、その利益によって藩財政の改革にも成功し、次第に幕府を凌ぐ経済・軍事力を蓄えていきます。ここに見られる工業化の発想こそ、集約農業文明を突破して、次の工業現波を始動させる原動力となったものでした。

人口容量が拡大する見通しが出てくると、減少し続けていた人口も徐々に増加しはじめ、天保元年(1830)前後には3263万人と農業後波のピークを超えて、明治維新(1868)前後には3540万人へ達します。

折しも嘉永6年(1853)、M・ペリー提督が率いる、アメリカ合衆国の艦隊が浦賀に来航して開国を迫ったため、幕府は翌年、日米和親条約を締結し、「開国」に踏み切りました。

 しかし、条約締結に反対する勢力が拡大したため、大老・井伊直弼は安政6年(1859)、安政の大獄を断行して厳しくに弾圧しました。が、それが祟って、井伊は翌年3月、桜田門外の変で暗殺されます。

幕府が弱体化し、薩摩や長州など西南雄藩の勢力が強まったため、慶応3年(1867)10月、15代将軍・徳川慶喜が大政を奉還し、12月には朝廷が王政復古を宣言して、いわゆる「明治維新」が達成されました。

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2011年5月17日 (火)

農業後波から工業現波へ(その1)

江戸時代の中~後期は、農業後波の下降期でした。この時代には、田沼意次が失脚した後、天明7年(1787)、吉宗の孫で奥州白河藩主の松平定信が老中首座に就き、翌年から「寛政の改革」(1799~93)を主導しました。

 田沼の重商主義を真っ向から否定して、質素倹約を旨とする緊縮政策を打ち出しましたから、深刻な財政危機はひとまず回避されたものの、商人、町民層の景気は消沈し、武士層からも不評が高まったため、寛政5年(1793)、定信は老中を解任されました。

代わって幕政の実権を握った11代将軍・徳川家斉は、文化・文政期から天保初期までの約40年間(1804~41)、いわゆる「化政時代」を作り出します。

 華美・驕奢な大奥生活に象徴されるように、爛熟・頽廃の世相は極みに達し、町民層の消費も拡大しました。だが、側近政治の拡大や政治の私物化で腐敗が進行し、歳入は増えたにも関わらず、財政は再び悪化し、物価の高騰や銭相場の下落で庶民生活も苦しくなりました。

このため、天保12年(1841)に家斉が没すると、老中・水野忠邦は直ちに「天保の改革」を実施して、財政再建に乗り出しました。

 だが、改革の基本は質素倹約と規制強化でしたから、再び経済は不況に陥りました。諸政策の中でも、幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙った上知令は極めて意欲的なものでしたが、武士から農民に至る広い層からの猛反対で頓挫し、忠邦自身もわずか3年で失脚しました。

以上のように、農業後波の下降期には、政権が小刻みに揺れ動き、経済政策でも、田沼時代の商業重視(約14年)、「寛政の改革」時の商業規制(約6年)、化政期の消費拡大(約41年)、「天保の改革」時の倹約強化(約3年)と、緩和と倹約が繰り返されています

 経済の基盤である米作が限界化している以上、奢侈や浪費を抑えて、簡素な生活に適応しなければなりませんが、そればかりだと、庶民大衆の不満が募ってきますから、時にはタガを緩めることも必要でした。そこで、倹約と緩和が交互に実施されたのです。

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